大判例

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名古屋高等裁判所 平成8年(行コ)5号 判決 1998年3月31日

控訴人(被告)

地方公務員災害補償基金愛知県支部長

鈴木礼治

右訴訟代理人弁護士

佐治良三

安西愈

井上克樹

河野純子

藤井成俊

被控訴人(原告)

岡林里美

右訴訟代理人弁護士

大竹秀達

佐伯仁

萬場友章

二村満

園田理

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  訴訟の総費用は、被控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  主文第一項、第二項と同旨

2  控訴費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張

次のように、当審における当事者双方の主張を付加するほか、原判決事実欄第二に記載のとおりであるから、これを引用する。

(差戻前の当審における控訴人の主張)

一  正孝の死亡前の勤務について

1 正孝の昭和五三年四月一日から同年九月末日までの勤務状況を、直接業務過重性認定の基礎事実とすることは、昭和六二年及び昭和六三年の各労働省労働基準局長通達に反するもので、法令の解釈を誤ったことになる。

仮に、右期間の勤務状況を公務起因性判断の基礎事実とすることができるとしても、この間の正孝の勤務の負担が過重であったわけではない。

2 修学旅行は、長年にわたり日本全国の小学校で実施され、その実施方法もおおむね確立している。瑞鳳小学校の修学旅行も、極めて標準的な日程行程で実施され、しかもその間、引率教員の業務を過重なものとするような事故なども全く生じていないから、それが正孝に格別の負担を与えたとは考えられない。

「子どもの本について語る会」は、同好会であって、教育職員の職務に密接に関連するものとはいえない。仮に、職務に密接に関連するとしても、この活動は、任命権者の支配下にない自由時間内の私的行為であるから、これを公務起因性判断の基礎事実とすることは地方公務員災害補償法一条に違反する。

3 ポートボール審判については、正孝の血管破裂時期は、被災当日の朝起きてからしばらく経ったころとみるのが医学上の合理的な判断であるから、右公務はその発症に全く影響しておらず、条件関係すらない。

二  吐物誤嚥について、

正孝の死因は吐物誤嚥であり、特発性脳内出血と吐物誤嚥との間には相当因果関係がない。特発性脳内出血の手術後に吐物誤嚥により患者が死亡することは、希有の事例に属する。

正孝のように、脳の手術後になお意識障害を伴う場合には、吐物誤嚥が容易に予想されるから、医療機関としては、適切な各種の事前措置、あるいはこれが発生した場合には適切な回復措置をとる必要があるが、公立陶生病院にはこの点に不手際があった。

二  非災害性死亡と公務起因性

特発性脳内出血のような脳血管疾患が、公務に起因して発症したとするためには、公務による過重な負荷が、基礎疾病を自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ、発症させたと医学的に認められることが必要であり、このような場合に初めて公務と発症との相当因果関係が肯定されるというべきである。

また、相当因果関係の有無を判断するに当たっては、一般人を基準として、当該公務が過重なものであったかどうかを判断すべきである。

四  素因、基礎疾病がある場合の相当因果関係

本人の素因・基礎疾病と公務とが競合して発症した疾病を公務上の疾病であると認定するためには、両者が単なる共働原因ではなく、公務要因の方が本人の素因等に比べて相対的に有力な原因でなければならない。

(差戻後の当審における控訴人の主張)

一  差戻後の控訴審における争点

最高裁判所の差戻判決は、差戻前の控訴審判決のうち、正孝の脳内出血が当日午前中に起こったこと、及び当日午前中までの公務の精神的、肉体的負荷の程度が脳内出血について相対的に有力な原因とは認められないとしたことは是認できるとしたものであるから、差戻後の当審においては、正孝がポートボールの審判を行ったが故に、血腫が増大したのか、そうだとした場合に、出血開始から血腫が拡大して意識障害に至るまでの間に診察、手術を受けることが可能であり、そうすれば、死亡に至る重篤な血腫が形成されることがなかったか否かが問題となる、ということになる。

そして、右各争点に係る因果関係については、完全なる証明までは要求されないが、単なる可能性では足りず、高度の蓋然性が認められることが必要である。

二  本件ポートボールの審判が血腫増大に与えた影響について

1 血腫形成の機序(メカニズム)

(一) 当審証人古瀬を除く当審寺尾証人らの医学的見解

当審証人古瀬和寛(中津川市民病院院長)を除き、いずれの医学証人、医学的見解、医学文献も、血腫形成の機序、正孝が意識障害に至る経過等についておおむね一致している。

(1) 当審証人寺尾榮夫(前東邦大学医学部脳神経外科教授)の見解

① 特発性脳内出血の場合には、先天的な血管腫様奇形が存在する。正常な血管では、細動脈から毛細血管を介して細静脈に繋がっているが、血管腫様奇形では、毛細血管を介することなく細動脈と細動脈とが繋がっている。また、血管腫様奇形においては、血管の壁が薄く、血管の走り方も毛糸を丸めたような形をしているため、破れ易く、加齢によって血管壁に硝子様変性や類線維素変性が起こり、一定のレベルに達すると、出血に至る。

② この出血のメカニズムを具体的にみると、左のアからエまでの機序のようになる(乙第一〇二号証)。このような考え方は、寺尾証人の独自の考え方ではなく、脳血管病変について世界的に著名な研究者である吉田洋二山梨医科大学教授(当時)の論文(乙第一一四号証。以下「吉田論文」という。)及び山村武夫東京医科歯科大学助教授(当時)の論文(乙第一一五号証。以下「山村論文」という。)においても同様の考え方が示されている。

ア 長年にわたる血管壁の変性により、血管奇形の動脈・静脈移行部から静脈寄りの部分に小出血が起こり、静脈側に小さな血腫を作り始める。血管奇形からの出血は、このように血管壁が薄い動脈から静脈への移行部や静脈に起こりやすいことは、海外の医学書(たとえば、乙第一一三号証)にも記載されている。

イ 数時間すると、血腫が半凝固の状態となり、静脈を圧迫するようになる。

ウ 静脈の圧迫と出血部付近の代謝異常により、浮腫、腫脹が発生し、その浮腫によりさらに静脈が圧迫され、還流障害、鬱血が強くなる。その結果、奇形血管が極度に拡張し、風船のようにふくれあがり、急激な透過性亢進が生じ、破れやすい状態になる。

エ 極限に達すると、壁の薄い部分が次々と破れ、出血して、大血腫を形成する。

(2) 馬杉証人の見解

浮腫は小さな出血があると生じ、導出静脈の近くにあれば、どんどん流れを悪くし、静脈の流れが悪くなると、浮腫がまた増大するという悪循環を起こし、大出血に至ったのであろうと推測できる。

(3) 吉田論文(乙第一一四号証七、八頁)

(高血圧性脳内血腫について)

三源説は、動脈からの出血のみならず、静脈や毛細血管からの出血をも重要視する説である。この細血管からの二次性出血の機序は、破綻動脈や破綻動脈が属する動脈系に血管痙攣、血栓形成、血行停止などによる循環障害が起こり、その結果、細小血管に急激な透過性亢進が生ずるためと考えられている。この二次性透過性亢進は、細小血管のみならず、直径二五〇マイクロン程度の小動脈にまで認められ、内膜の好中球浸潤、内・中膜間の解離性動脈瘤様出血、類線維素変性、壁の破裂がまれならず見られ、大出血巣の形成過程にこの二次性出血は極めて重要であると考えられる。

静脈からの出血は、脳腫張や脳内血腫に起因した静脈の還流障害によって静脈圧が亢進して生ずるといわれ、その結果、動脈の支配領域を逸脱した大出血巣を形成するとされ、出血巣内に静脈の類線維素変性や破綻を見ることができる。著者らの研究成績から、三源説が最も真実に近いように考えられる。

(4) 山村論文(乙第一一五号証一六二、一六四、一六五頁)

(高血圧性脳出血の出血巣の拡大について)

破綻した動脈と同一動脈系の分布領域に起こった出血巣の周囲への拡大は、出血巣のために起こった静脈性還流障害による静脈性出血によって起こる。

高血圧性脳出血の出血巣は、静脈性還流障害によって起こる静脈性出血により、続発性に周囲に拡大する。

(二) 特発性脳内出血における血腫の増大と血圧との関係

吉田論文や山村論文は、高血圧性脳内出血に関する論文であるが、最初の出血後いかなる経過で大出血巣が形成されるか、すなわち血腫が増大する機序は、特発性脳内出血であるか高血圧性脳内出血であるかを問わないのであるから、両論文に示された出血後のメカニズムは、本件にも同様に当てはまる。

むしろ、高血圧性脳内出血のように、高血圧が原因となっている脳内出血においてさえ、血圧の上昇が血腫増大の原因とはされていないのであるから、高血圧性脳内出血ではない他の脳内出血においては血圧の影響は無視できる。

以上により明らかなとおり、正孝の午後二時一〇分ころの大出血は、当初の出血が次第に増大していき、それにより引き起こされた浮腫により静脈を圧迫し、還流障害、鬱血が強くなった結果、他の奇形血管が次々に破れていったことによるものにほかならず、公務に従事したこととの関連性はない。

(三) 古瀬証人の見解について

古瀬証人は、ポートボールの審判を行ったことが、血腫(大出血)形成の原因である旨証言し、吉田洋二教授の業績を援用している(同調書一四三、一四四頁)。

しかし、吉田教授の見解は、前に述べたとおり、出血後の局所の静脈還流障害が血腫増大の原因であるとしており、全身血圧の上昇が大出血巣の原因とはされていないから、古瀬証人の右見解には左袒できない。

2 意識障害に至る経過

(一)  血腫形成(大出血)に至るメカニズムは、吉田論文や山村論文に記述されたように、まず、血管奇形から神経症状を呈さない程度の余り大きくない出血が生じ、時間とともに血腫の凝固、収縮、周囲脳組織の浮腫・腫張により、血管奇形の導出静脈の圧迫、狭窄を起こし、上流の血管奇形とその周辺に鬱血状態を起こし、血管が拡張し、ついに極限に達して壁の薄い血管が次々に破綻するというものである。したがって、小血管からの出血が大出血に至るまでには、数時間程度の時間を要する。

(二)  寺尾意見書(乙第八五号証)は、次のように述べている。

「脳動脈瘤の破裂とは異なり、血管腫様奇形からの出血は、一気に大量の血液が血管外に出るのではなく、血管壁より少しずつ漏出するように出血してくるのであり、したがって、脳動脈瘤からの出血では急激に激しい頭痛、嘔吐、意識障害などの、クモ膜下出血の症状を出現するのとは異なり、出血初期には、軽い頭痛、無気力やだるさ、違和感、情緒・感情障害などの不特定な愁訴しかなく、脳内の血腫増大に伴い、麻痺、失語、半盲、意識障害などの神経症状が出現してくるのが普通である。正孝の場合も、午前中に始まった血管腫様奇形からの出血が止血されず、脳内出腫が徐々に増大し、ついに脳室内に穿破するに至り、ここで意識喪失などの急激な症状悪化を来したものと考えられる。」

この見解は、神野意見(正孝のCTスキャンを読影した神野哲夫藤田保健衛生大学脳神経外科教授の見解。乙第七七号証。)、小林意見(正孝のCTスキャンを読影した小林秀東京都老人医療センター脳神経外科医長の見解。乙第八六号証。)とも一致しており、このような血腫増大が発症から六時間以内に起こるとの研究成果(高尾論文・乙第九八号証の二、藤井論文・乙第九九号証の二、弘前大学報告・甲第二二号証)によっても裏付けられるもので、合理的疑いを挟む余地のない妥当な結論である。

(三)  これに対し、古瀬証人は、出血量と時間的経過につき三つのパターンを想定し、正孝の場合には、ポートボールの審判に従事することにより急激に脳室穿破した旨の意見を述べるが、何ら根拠を示しておらず、前記の神野意見、小林意見に明らかに反し、また、前記の客観的研究データに基づく医学的知見に照らし、採用できない見解である。

3 全身血圧の上昇と血腫増大の関係

(一)  正孝の出血部位

正孝の出血部位が細動脈から細静脈あたりの細い血管であることは、本件の医学証人、医学的意見のほぼ一致するところである(この点は、古瀬証人も認めている。)。そうすると、そのような細い血管においては、血圧は急激に減少するから、全身血圧の上昇による影響はほとんどないといってよい。

(二)  全身血圧の上昇と血腫増大に関する研究

全身血圧の上昇が血腫の増大に関係しないことについては、①ハーバード大学研究(乙第八五号証)、②高尾論文(乙第九八号証の一、二)、③藤井論文(乙第九九号証の一、二)などがある。

右藤井論文は、脳神経外科の中では最も権威のある研究誌に掲載されたものである。この論文は、発症直後であればあるほど、その後の血腫の増大は進むが、この血腫の増大と血圧の高さは関係がないことを明らかにしている。すなわち、発症から長時間経過していれば、血圧が高くても血腫増大の可能性は少ないが、発症直後であれば、血圧が低くても、血腫増大の可能性があることを、四一九例という十分な症例について統計的処理を行いながら論じており、極めて信頼性の高いものである。

4 古瀬見解の不当性

(一)  全身血圧と血腫との関係

古瀬証人は、肉体的・精神的負荷が全身血圧の上昇をもたらすことは医学経験則上明らかであるとしている。しかし、前記のような血腫形成のメカニズム、出血部位が全身血圧に変動しない部位であること、そして、後記のような日常生活における全身血圧の変動の状況、血圧の上昇は血腫の増大に関係しないという研究結果、さらに脳に自動調節機能があること等に照らすと、古瀬見解は、医学的に認められない見解である。

(1) 全身血圧は、日常生活においてかなり変動をする。そして、ポートボール類似のミニバスケットゲームにおける血圧測定の結果によれば、血圧上昇は最大でも二一mmHgの上昇にとどまっているから、ポートボールの審判が特に生理的負担度の大きい運動とはいえない。そして、体重の移動を伴う動的運動は、腕立て伏せ、懸垂、重量挙げ、エキスパンダーといった体重の移動を伴わない静的運動に比較して、血圧の上昇が少なく、またあまり強くない全身運動では、血圧は最初少し上昇するがやがて安定状態に落ち着くから、正孝が行ったポートボールの審判という動的運動では、血圧がほとんど上昇しなかったことが合理的に推測される。

もしも、古瀬見解のように、ポートボールの審判による全身血圧の上昇が血腫の増大の原因であり、正孝がこれにより意識障害を起こしたとすると、午前九時から午後二時までの間の排尿、階段の昇降、自動車の運転、試合前のウォーミングアップ等による全身血圧の上昇は、何故に正孝の血腫増大をもたらさず、意識障害を起こしていないのかについて説明がつかない。

(2) 古瀬証人がその証言の根拠としてあげる「今日の治療指針」は、脳出血を起こしてから意識障害を起こすまでのメカニズムについて専門的に記述しているものではない。大きな脳出血では、急性期に頭蓋内圧が亢進し、この頭蓋内圧亢進自体は、全身血圧の上昇と徐脈をもたらすのであって(クッシング現象)、「今日の治療指針」においては、この発作後の血圧が問題とされているのであり、これには、血圧上昇が発作の原因となるとか、血圧の上昇によって血腫が増大するなどという記載はない。

(3) 古瀬証人は、血圧と血腫の増大との関係につき、一般に脳出血の場合、初回CT撮影時の血圧の高い方が、有意に以後の血腫増大の可能性が高くなるとの見解を示しており(甲第一五号証)、その根拠とするのは弘前大学報告(甲第二二号証)である。

しかし、同報告の「まとめ」欄には、血圧は、血腫増大の原因として挙げられていない。また、同報告の表6を見れば、初回CT施行時に血圧が高いほど以後血腫が増大するように見えるが、そのデータを仔細に見れば、血腫が増大した例というのは、発症から時間が経っていない症例であり、この場合にはクッシング現象により、血圧が上昇するのが当然であるから、発症後の時間の検討を行わず、血圧のみを問題にすることは意味がないというべきである。

(二)  脳の自動調節機能

(1) 脳には、一定範囲の血圧変化にかかわらず、脳血流を一定に維持する自動調節機能が脳循環の調節機構に存在している。血管の平滑筋が収縮したり緩んだりして血流量を調節するものであるから、出血部位である微小血管に到達するまでに、内頚動脈、中大脳動脈、小動脈、細動脈の各平滑筋の働きによって血流量は調節される。微小血管からの出血により、これら内頚動脈、中大脳動脈、小動脈、細動脈の各平滑筋の働きまで阻害されるとは考えられない。したがって、出血があったからといって、それだけで自動調節機能が障害されるわけではない。

(2) 脳の自動調節機能の障害

脳出血の際の脳血管の自動調節機能の障害は、下限血圧が高い方に移動する形で現れ、障害の影響が出るのは平均血圧の下方の血圧であり、平均血圧の上方の方は、余り機能障害を受けない。したがって、全身血圧が上昇したからといって、脳の血流量が増加するわけではなく、ポートボールにより仮に全身血圧が上昇しても、その影響を受けることはない。

(3) 古瀬証人は、脳の自動調節機能(オートレギュレーション)は、健常な状態で初めて保たれるのであって、脳梗塞、脳出血など脳血管障害の急性期、脳腫瘍、脳外傷、髄膜炎脳炎などの感染症で障害を受け、いったん脳内に出血を生じた場合、その程度に応じ全般的に又は局所的に脳循環自動調節は失われるか弱められ、脳深部であっても全身血圧の影響を受けることになる旨述べている(甲第一五号証四頁)。

しかし、頭蓋内の出血があっても、自動調節機能は保たれている。そうでなければ、いったん出血が始まった以上、その後の全身血圧の変動がそのまま脳深部に影響を与え、自然に止血することはあり得ないことになり、実際にはほとんど全ての場合六時間内に止血することと矛盾する。古瀬証人は、一方で、休息をしっかり取ることができたと仮定すれば、皮質下出血の血腫の増大はある段階で止まった可能性がある旨証言しているが、明らかに矛盾している。

(三)  出血後の血管は破れ易いとする点

古瀬証人は、正常な血管はなかなか破れないが、出血後、血管がいったん破れた後、止血機構が働いて辛うじて止まっているような場合には、圧の上昇があったときに当然破れ易くなる旨証言している。

しかし、そのような考え方では、いったん出血しても大出血に至らない場合のあることが説明できなくなってしまう。

(四)  脳動静脈奇形は血圧の変動を受け易いとする点

古瀬証人は、動静脈奇形は、正常な血管ではないから、血圧が上昇するなどの影響を受け易い旨証言する。しかし、脳動静脈奇形を現に有している患者一〇〇〇例に及ぶ例で、収縮期血圧が四四mmHg(三八パーセント)も上昇しているにもかかわらず、一例も脳動静脈奇形からの出血をみなかったという報告(乙第八五号証)に照らせば、古瀬証人の見解は採用できない。

(五)  血腫の量が多かったとする点

古瀬証人は、正孝の血腫の量が多いとしているが、正孝の手術を担当した堀医師らが証言するとおり、正孝の血腫は取り立てて大きいというものではない。

また、古瀬証人が根拠とする桜井報告(甲第一〇号証)においては、いかなる原因で血腫のサイズに差が生ずるのか、全く言及されていない。同報告は、大血腫だから必ず死に至るとか、小血腫だから必ず救命されると述べているわけではない。したがって、桜井報告を根拠として、血腫増大の原因が身体的、精神的負荷によるものとすることはできない。

三 治療機会の喪失について

1 発症当日の正孝の公務に代替性があったことについて

(一)  午前中の勤務体制について

発症当日の午前中の正孝の勤務状況は、乙第六号証記載のとおりであり、各放課休息、授業終了後において、保健室で安静を保ったり、受診のため職場を離れるなどの申し出をすることは十分可能であった。また、当日、瑞鳳小学校においては、教頭、教務主任など授業をもたない教諭が交代のため待機していたから、これらの代替教員による授業を要請することができた。このように、正孝が瑞鳳小学校を出発するまでの間には、正孝が公務を離れることは事実上困難であったという事情は存在しなかった。

さらに、瑞鳳小学校の周辺には、正孝が最初に受診した井上病院を始め、複数の医療機関があったのであるから、受診を希望すれば、極めて容易に受診できる地理的環境でもあった。

(二)  ポートボールの審判の交代について

当時、瑞鳳小学校には、ポートボールの指導者として、正孝のほかに六名の教諭(沼本、宮地、伊藤、深谷、野田、水野)がおり、ほかに川崎教頭もポートボールの指導経験があり審判をすることもできたから、これら教諭らが正孝に替わって児童を引率し、あるいは審判に当たることが可能であった。

仮に、正孝が練習試合に出発するまでの間に、「安静を保ちたい。」、「診察、治療を受けたい。」等の理由を告げて審判の交代を校長など監督者や同僚教諭に申し出た場合、監督者は容易に他の教諭に対して審判の交代を命ずる職務命令を発することができたし、同僚教諭においても交代に応じていたと推認され、さらに、練習試会の会場である東栄小学校には、同小学校の教諭や参加校の城山小学校の引率教諭もいたのであるから、他校の教諭に右のように理由を告げて審判の交代を申し出れば、これに応じて審判を交代していたことが容易に推測され、審判の交代をしてもらうことは十分可能であった。

2 当日午後二時一〇分以前に、誰も正孝の脳内出血に気付いていないことについて

正孝本人も、妻、同僚教諭ら、校長、教頭など周囲の者も、正孝に頭蓋内の出血という病変が生じていることに全く気付いておらず、正孝が安静を保ち診察治療を受けなければならないなどとは自身を含め、周囲の誰もが全く思っていなかった。したがって、同人には診察、治療を受けなければならないという契機すらなかったのである。

よって、正孝において直ちに安静を保ち、診察、治療を受けることが困難な状態にあって、引き続き公務に従事せざるを得なかったという状況にあったということはできない。

3 正孝が午後二時一〇分以前に受診したとしても、医師が同人の脳内出血に通常気付くことがないことについて

(一)  仮に、正孝が当日の午前中に脳外科医の診察を受けていたとしても、非特異的な症状を示していたに過ぎないから、診察した専門医でも、脳の緊急CT検査を指示することはないと考えられ、したがって、正孝の同人の特発性脳内出血に気付くことは通常あり得ない。

(二)  正孝が特発性脳内出血を発症した昭和五三年は、今日のように神経内科や脳神経外科の専門家が多くなかった時代であり(昭和五二年一二月三一日現在の愛知県内の病院において、脳神経外科が設置されていたのは一割にも満たないような状況であった。)、専門医が多くなった今日でも、疲労感等から病気を疑う頭痛の患者が最初に受診するのは、脳を専門としない内科であることが多く、正孝が頭痛を感じていたとしても、脳外科などの専門病院に最初から受診することは通常では考えられない。

(三)  また、古瀬証人が「その時代時代で最もスタンダードであるべき治療の考え方を示したもの」と証言する「今日の治療指針」から、脳内出血の当時の医学的認識を見ると、昭和五一年版においては、クモ膜下出血等によって意識障害を起こして病院に搬送された例を前提とする記載しか存在しない。

このような医学的認識は、昭和六二年になっても基本的には変わりがなく、同年版の「今日の治療指針」においても、そこに記載された様々な症状は、意識障害を中心とした診断であり、正孝のように意識障害等を起こしていない非特異的な状態で、どういう検査をし、どういう症状があれば脳内出血を疑うのかについては何の記載もされていない。したがって、意識障害を起こしていない段階で、脳出血を疑うことは、少なくとも昭和五三年当時においては極めて困難であった。

(四)  いまだCTが普及していない昭和五三年においては、専門の脳神経外科を有する病院でも、CT検査の必要性があっても、一、二週間先に予約をし、帰ってもらうのが通常であったから、意識障害を起こしていない者にCT検査をする可能性は全くといってよいほどなかったといえる。

(五)  以上の点からすると、発症当時はもとより、今日であっても、いかなる名医をもってしても、正孝の様子のみから脳内出血を疑い、ましてやCTスキャンを撮影したと推測することは、全く非現実的であり、もちろん高度の蓋然性があったとは認められない。

(六)  安静にしていた場合の経過について

古瀬証人は、休息をとることで血腫増大に至らなかった可能性があるとする。

しかし、本件においては、安静にしていれば血腫の増大が起きなかったという可能性も否定される。すなわち、前示のとおり、血腫増大のメカニズム(全身血圧の上昇とは関係がない。)、出血部位(全身血圧の影響を受けるような血管ではない。)、脳の自動調節機能(大出血でなければ影響はないし、障害を受けても上方の機能は障害を受けない。)等を考えれば、本件大出血は、自然経過の中での出血であって、どんなに安静にしていたとしてもこれを免れ得なかったと考えるのが合理的である。

4 正孝がごく普通の時間的経過で手術を受けていることについて

正孝の特発性脳内出血は、普通のものであり、しかもその手術は、発症後ごく普通の時間的経過をたどってされたものである。また、仮に、正孝が授業やポートボールの審判に従事しなかったとしても、結果としては、本件においてたどったのと同じような大出血による意識障害等の神経症状が出現した後に手術を受けることになったとみる以外にはない。したがって、正孝が、右公務に従事したことによって、治療機会を喪失したとは到底いえない。

5 手術が成功したことについて

本件血腫は、手術困難な重篤な血腫ではなく、血腫の形成は死亡の直接の原因ではない。古瀬証人を除く脳神経外科の専門家が一致して述べるように、正孝の特発性脳内出血の血腫除去手術は完璧に行われ、術後の経過も順調であったのであるから、主治医の堀医師の意見に「脳の腫れが乗り越えられれば、助かったろうと思います」とあるように、公立陶生病院の看護上の不手際による吐物誤嚥さえなければ、正孝の救命ができたことはもとより、少なくとも普通の生活ができる程度にまで回復ができたのである。

正孝が午前中の授業を担当し、午後にポートボールの審判をしたことにより、医学的にみて、出血開始後の症状が自然的経過を超えて増悪したという事実はなく、また、正孝の血腫量が五五グラムであったこと、意識レベルが三―二〇〇(4b)であったことと、予後(死亡)との間に、医学的にみて因果関係は認められない。

四 まとめ

1 正孝の脳内出血開始後の血腫の増大、意識障害の出現までの間の一連の経過は、医学的知見によれば、すべて自然的経過における通常の流れをたどったものである。特に、ポートボールの審判等の公務に従事したことにより、その自然的経過を超えて増悪したものとは全く認められない。

2 正孝がポートボール審判等の公務を続けたことが不可避であったとは認められず、また、同人はもとより周囲の者も、客観的にみて、当日午後二時一〇分ころの大出血に至るまで、同人が公務を離れて診療治療を受けなければならないといった認識を全く抱かなかったことから、正孝が公務のため、直ちに安静を保つことや、あるいは、診療、治療を受けることが困難な状態であったとは認められない。加えて、仮に正孝が午前中の段階で受診したとしても、脳出血が発見され治療された可能性もなかったというべきである。

3 以上のとおりであるから、本件において公務に内在する危険性が現実化したとは到底認められない。

(差戻前の当審における被控訴人の主張)

一  正孝は、昭和五三年四月以降の間に徐々に疲労が積み重なった結果、これが共働原因になって特発性脳内出血を発症し、死亡するに至ったものであるから、本件発症が公務に起因することは明らかである。

任命権者の施設管理下を離れて公務に従事している場合には、その間の個々の行為については任命権者の直接の指揮監督を受けないが、行為全般については、包括的に任命権者の支配を受け、任命権者に対する責任を負っているものである。このような場合には、個々の行為について子細に区別し、公務との関連性の強弱を論ずることは実情に即さないことが多く、また、実際に無理な場合が少なくないから、完全な私的行為にわたらない限り、全体として公務に従事しているものとして扱うべきである。

正孝の主治医であった堀医師の証言によれば、本件発症における出血の始期は、ポートボール審判時であると認められる。

仮に、当日朝に出血があったとしても、ポートボール審判という強力な負荷により再出血若しくは出血量の増加を招来して急激に発症した可能性が十分にある。

二  吐物誤嚥に関する処置について、陶生病院に落ち度はない。吐物発生時において脳内出血による意識状態が極度に悪化していたことが、正孝死亡の真の原因である。

三  特発性脳内出血であっても、クモ膜下出血や高血圧性脳内出血の場合と同様、これが、排便、性交等、肉体的又は精神的緊張時に発生しやすく、その誘因として外的ストレス、血圧が作用すると考えることには医学的にも根拠がある。

四  共働原因論について

共働原因論は、既存の素因等が原因又は条件となって発症した場合であっても、公務が素因等の増悪を早めた場合又は公務と素因等が共働原因となって死亡原因となる疾病を発症させたと認められる場合には、公務と既存素因との優劣を問わず、公務と右疾病の発症との間に相当因果関係が肯定されるとする考え方であって、今日では定着した判例理論である。

(差戻後の当審における被控訴人の主張)

一  当審における争点について

1 当審における審理の課題

最高裁判決によれば、当審における審理の課題は、出血開始後の公務の遂行がその後の症状の自然的経過を超える増悪の原因となったことにより(①)、又はその間の治療の機会が奪われたことにより(②)、死亡の原因となった重篤な血腫が形成された可能性の有無である。そして、右①又は②の可能性が肯定されるならば、本件は公務に内在する危険が現実化したものとして、公務上とされるのである。

2 出血開始後の公務の遂行について

本件では、出血開始後に正孝が行った公務の全てを検討すべきである。そして、この場合には、当該公務が出血開始後に行われたことによって特発性脳内出血の態様、程度に影響を与えたか否かを判断するものであるから、公務の過重性は、本件の場合には要件とはならない。この点は、本件と同時期に言い渡された最高裁第三小法廷の平成八年一月二三日判決(判例時報一五五七号五八頁)の判示によっても明らかである。

3 治療機会の喪失について

最高裁判決は、正孝の公務遂行状況を原審の確定した事実関係によって認定し、引き続き公務に従事せざるを得なかったと判示しているのであるから、当審において審理判断すべき事項は、引き続き公務に従事せざるを得なかった事情があるか否かではなく、前記1の②の可能性の有無のみである。

控訴人は、正孝が直ちに安静を保ち、診察治療を受けることが困難であったというためには、本人に、安静を保ち、診察治療を受けようとする意思があり、そのことを周囲の者が認識するなど安静治療の必要が客観的に認識し得る状況にあったことが必要である旨主張している。しかし、最高裁は、本人の主観的な意思や、あるいは周囲の者が認識するなど安静治療の必要が客観的に認識し得る状況にあったかどうか等は全く問題としていない。使用者の故意過失を要件としない公務災害補償制度において、控訴人の主張は使用者の過失の有無を判断する要件と同一のものを公務上外の判断基準に持ち込むもので、その誤りは明らかである。

また、控訴人は、公務継続の必要性について、正孝が治療の機会を奪われたというためには、受診のため職場を離れることが不可能な状態で公務の遂行に当たっていたとの事実が存在することを要する旨主張している。しかし、このような考え方は、最高裁の判旨を逸脱するものである。

二  公務の継続により症状が増悪したことについて

1 最高裁判決の指摘する医学上の前提事実がすべて認められることについて

(一) 血圧の変動が出血の態様、程度に影響を及ぼすことについて

(1) 最高裁が「血圧の変動が出血の態様・程度に影響を及ぼすことがあることがうかがわれる」と指摘している医学上の常識は、ほぼすべての医師によって認知され、治療上の当然の前提とされていることであって、医学経験則上、その因果関係は十分に認められている。これを否定的に解する控訴人の主張は相当ではないし、控訴人の主張を裏付ける寺尾医師らの証言等も相当ではない。

(2) 藤井論文について

藤井論文は、血圧は血腫増大に関与していないと結論付けている。

しかし、藤井の研究は、軽い事例、重い事例を除外して残った比軽的平均的な患者についてのもので、正孝は本研究では除外された重い事例に属するから、本研究は正孝の場合に直ちに当てはまるものではない。

また、藤井論文は、血圧との関係に焦点を当てて論じたものではないし、入院時の血圧の高低をもって患者を分類しているにとどまり、入院後の血圧の変動を調査研究の対象にはしていない。また、患者の日常の血圧と、入院時(発症時)の血圧との差も調査していない。

このように、同論文が論ずる血圧と血腫との関係は、入院時の血圧のみに基づく限られた結論であり、脳内出血開始後の公務遂行が出血ないし血腫増大に与えた影響の有無の論証にはならない。

(3) 高尾論文について

高尾論文も、収縮期及び拡張期血圧、発症後の血圧下降治療などは、血腫の増大になんらの影響も及ぼさなかったとする。

確かに、高尾の研究は、事例をグループ分けし、各グループごとに三回(入院時、発症後六時間経過時、二四時間経過時)に分けて血圧の変化を測っている。しかし、この血圧の測定は、各症例の患者ごとの血圧の変化ではなく、血腫増大グループと、血腫非増大グループごとの平均を論じ、その限りにおいて有意の差がないと結論付けているに過ぎないし、各患者の日常の血圧との差異を検討したものでもない。

また、収縮期血圧と拡張期血圧等も、血腫増大群と、非増大群との間に有意の差がなかったとしているが、被殻出血、視床出血あるいは橋出血についてそのようにはいえても、血腫増大グループに皮質下出血はなく(皮質下出血はあまり大きくならないことによる。)、皮質下出血には右の結論は当てはまらない。

このように、高尾論文も本件の事例には当てはまらない。

(4) 寺尾医師の見解について

寺尾医師は、乙第九三号証の意見書及び証人尋問で、右両論文に依拠して、ポートボールの審判に従事したことが血圧上昇、脳血流増大を招き、それが脳内血腫の増大を起こしたという主張は科学的には否定されるべきであるとしている。

しかし、脳内出血を発症した後の身体的活動が、血腫の増大や症状悪化にどのような影響を与えるかの問題を直裁に調査した研究はないし、本件は右両研究の射程距離内に入らない。

また、同医師作成の乙第八五号証の意見書が引用する参考資料3のザボー論文は、脳動静脈奇形が破れていない状態で、血圧の高い人がいても出血がなかったというものであり、再出血については言及も検討もしていないから、本件の問題に対する論証とはならない。

結局、寺尾医師の結論は、全く科学的根拠を欠くというべきである。

(5) 神野医師は、血圧と脳内出血との相関関係について、一般論では強いだろうと理論的に考える、としている(神野調書第二回一八丁)。

堀医師も、血圧が脳内出血に関係がある旨証言している(堀調書第一回一四、一五丁)。

さらに古瀬医師は、意見書(甲第一五号証)において、「肉体的・精神的負荷が全身血圧に上昇をもたらすこと、および全身血圧の上昇が頭蓋内血腫の増大に関与することは、医学経験則上明らかである。そして、比較的おとなしい性質をもつ皮質下出血が増大するには、当然この全身血圧を考えなくてはならない。」とした上、「実際の(広義の)脳出血の急性期治療においては、血圧の管理に先ず留意し、収縮期血圧を一六〇mmHgを超えない程度に血圧をコントロールするのが一般的である。これは、医学経験則上、全身血圧の上昇により血腫の増大をきたしたり、再出血したりすることを避けるための救急処置の基本的事項である。」とし、「今日の医学においては、一般に、全身血圧の変動は出血の態様・程度に影響を及ぼす可能性があるとされている。」と証言している。

また、「今日の治療指針」(甲第一一号証から第一三号証まで。これは、著作時において第一線で活躍している医師によって毎年編纂されるものである。)では、血圧を上げないように管理することが、基本的な治療方針とされている。

(二) 肉体的又は精神的負荷が血圧変動や血管収縮に関係することについて

(1) 正孝の出血部位

古瀬証人は、出血部位は細動脈付近であると証言している。この証言は、乙第四八号証のCT撮影をした際に血腫部位について検討したこと、本件出血が皮質下出血であること、白質部分には細動脈が多くあること、出血後の出血状況及び再出血の状況から、控訴人主張の毛細血管から細静脈にかけての部位からの出血とすること、出血量を説明できないことに基づくものであり、極めて信憑性の高い判断である。

控訴人は、出血部位は、「毛細血管から細静脈相に入るか入らないぐらいのところである」(平成八年一〇月一一日付け控訴人準備書面六頁)としている。そして、神野証言及び寺尾証言はこの主張に符合するものであるが、これらは古瀬証言に照らし信憑性がない。

(2) 微細血管への全身血圧の影響について

古瀬医師も、正常時においては、微細血管は全身血圧の影響を受けるものの、全身血圧の影響は少ないとする。しかし、出血開始後については、止血機構が働いて血餅ができ、フィブリンの膜ができてかろうじて止まっているような不正常な場合は、圧の上昇のあったときには当然破れやすくなると証言している。この証言内容は、医学界における公知の事実である。

控訴人は、全身血圧の変動があっても微細血管には影響がない旨主張しているが、寺尾医師は、毛細血管あたりの微細血管であっても全身血圧の影響を全く受けないことはないとしており(寺尾調書一二四頁)、古瀬医師の証言をむしろ肯定している。しかも、出血開始後の影響については全く言及していないのであるから、古瀬医師の証言の緻密さと比べれば、明らかに信憑性が認められない。

(3) 脳血流自動調節機能について

寺尾医師は、乙第九三号証の意見書や証言において、脳血管障害の発生に伴って、自動調節機能の障害が生じうることを認めながら、正孝に血管腫があったとしても脳血流自動調節機能は正常に機能しており、また同機能が働くため脳への血流量に変化はなく、したがって、ポートボールの審判をしても血流量は一定していたとしているが、科学性に乏しい。

馬杉医師は、出血が起こった部分に何かの変化があるとしながらも、病巣局所の血流量変化については目をつむり、言及しないのは、一層科学的論拠に欠ける。

(4) 天野論文(甲第一四号証)は、「脳自動調節は単に一つの因子で行われているのではなく、Bayliss効果、神経性調節、NOを中心にした内皮性因子など複数の機序を形作っている可能性がある」とし、さらに、太い血管と細い血管とでは、異なる因子によってそれぞれ自動調節が働いていることを明らかにしている(五五、五六頁)。また、同論文では、脳血管障害や脳内出血が起こっているときには、脳血流自動調節機能に障害が出ることが明らかにされている。

(5) 古瀬医師は、甲第一五号証の意見書及び証言において、脳動静脈奇形のような非正常組織の部位においては、脳血流自動調節機能が正常な機能を果たしていないとした上で、さらに出血を起こしている場合には、出血が脳動静脈奇形からのものであっても、そうでない場合であっても、いずれもその部位の脳血流自動調節機能は、より機能を果たせないものであったとしている。そして、同医師は、右いずれの観点からしても、全身血圧の変動により血流が増加していたことを十分に推認できるとしている。

以上によれば、寺尾医師及び馬杉医師の見解はいずれも採用できず、古瀬医師の見解が採用できるというべきである。

したがって、正孝は、ポートボールの審判をすることによって血圧の上昇をきたし、かつ、出血開始後であることから、脳血流自動調節機能が十全な機能を果たしていなかったため、血流量を増加させ、血腫を増大させたのである。

2 最高裁の判示する可能性が医学上十分に認められることについて

(一) ポートボール審判による負荷や、これによる血圧の一過性の上昇が、出血の態様、程度に影響を及ぼしていることについて

(1) 寺尾証人及び馬杉証人は、ポートボール審判をしたことによって血圧が上昇し、これが出血の態様、程度に影響を及ぼしたことを否定している。右各証言は、治療のためといえども、身体を動かしてはいけないと考えられていた時代の見解が正しくないとする意味であれば、その限りで現代の医学界の常識と一致する。「今日の治療指針」(甲第一一号証)も、脳出血患者の移送は慎重に行えば従来恐れられていたほど危険なものではないとしている。

しかし反面、右「今日の治療指針」も、頭部にできるだけ振動を与えないよう慎重に搬送を行うよう注意を促している。脳内出血を起こしている(あるいはその可能性のある)者に対し、まず第一に安静を確保するというのが、現代の医学界の常識である。これを俗説として排斥しようとする寺尾証言及び馬杉証言は、全く信憑性がない。

(2) これに対し古瀬医師は、出血があった場合には、現在においても安静に保つことが治療の第一歩であることを明言している。同医師が証言するように、いったん出血が起きた場合には、再出血をいかに避けるか、また再出血による影響をいかに小さくするかが、治療上最も大切であり、また、頭蓋内圧に変化をきたした状態では、体動の影響は一層大きいのである。

したがって、既に脳内出血を起こしている正孝にとって、午前中通常の勤務を遂げ、午後にはポートボール会場に児童を引率して行き、さらに審判を行い、かなり過激な運動を行うということは、健康体の時と比べて、血圧の上昇や体動の影響が脳に一層加わりやすい状態となっていたもので、運動負荷によって生じた血圧上昇により、遂には審判途中に大きな再出血を起こし、あるいはそれまでの出血の蓄積量が極限に達し、死亡するほどの血腫を形成させたことが明らかである。

(3) 出血と止血のプロセスについて

古瀬医師は、正孝の出血は、小さな出血が繰り返され、ある時に大出血を起こすパターン(古瀬証人調書添付図4のC)に該当するとし、当日午後、正孝が出血を頭蓋内に持った状況で過激に身体を動かしたことにより、全身血圧を上昇させ、血流量を増大させ、これによって、審判をしている間に大出血を引き起こしたとしか考えられない、としている。この見解は医学的かつ科学的であり、十分に信用することができる。

他方、寺尾医師は、仮説に仮説を重ねた上で、運命論によって本件事案を解明したかのように証言しており、同証言にはなんらの科学的合理性もない。馬杉証言も同様であって、両証言は、再出血の原因について合理的な理由を見いだすことが全くできていない。

(二) 出血開始後の公務の遂行が、死亡に至るほどの症状の増悪の原因となっていること(前記一1①)について

(1) 控訴人は、正孝の死亡は、自然的経過をたどった結果であると主張している。

寺尾医師は、本件は、導出静脈のうちさらに「運の悪い」ところに出血が起きた「アンユージュアルな」事例であるとしている。しかし、細静脈が出血したことの証明はされていないし、導出静脈が一本しかないところで出血があったことも証明するものは全くない。むしろ、皮質下出血の場合は、細動脈に出血することが一般によくみられ、また、仮に細静脈側に出血があったとしても、通常、その周辺の頭蓋内圧が高まり止血されるのである。しかるに、寺尾医師は、本件事例についてだけは、止血機構に論及することを避けているのであって、同医師がいうような事態は通常はあり得ない。

馬杉医師は、正孝は、出血開始後公務を遂行しようと、安静にしていようと、自然的経過によって大出血を起こし死亡するに至ったとし、公務と死亡との因果関係を否定している。しかし、この見解も、医学上の見解としてははなはだ不相当なものである。

(2) これに対し、古瀬医師の見解は前記のとおりであり、この見解こそが正当である。すなわち、同医師の証言等により、正孝は午前中に皮質下出血を起こしたものの、その後も午前中は通常の勤務を行い、午後には児童をポートボールの練習試合会場に連れて行き、その後ポートボールの審判を行ったため、血圧が上昇し、血腫周辺の血流量も増大し、大きく再出血を起こし、あるいは出血量が蓄積され極限状態にまで達し、死亡するに至るほどの血腫が形成されたものであることが、医学上十分に証明されたというべきである。

よって、公務の遂行と正孝の死亡との間には因果関係が認められ、正孝の死亡が公務上であることは明らかである。

三  出血開始後の公務の遂行による診察、治療の機会の喪失と死亡の原因となった重篤な血腫の形成との因果関係(前記一1②)について

正孝が医師の診察治療を受けていれば、次の1、2のように、死亡の原因となった重篤な血腫の形成が避けられた可能性がある。

1 医師の診察を受けていれば、脳内出血等の病変の存在を疑われ、早期治療や安静確保により、重篤な血腫の形成を避け得た可能性があることについて

(一) 正孝が、出血開始後から意識障害を起こして倒れた午後二時一〇分ころまでの数時間内に医師の診察を受けていた場合、左の(1)、(2)、(3)のように、正孝の症状や徴候から、その医師が正孝の前頭葉に脳内出血等の脳病変が生じているのではないかと疑った可能性が存在し、その場合には、正孝にCT検査がされ、より正確な脳内出血の部位と大きさが確認された上で、直ちに入院治療がされ、死亡の原因となった重篤な血腫の形成が避けられた可能性がある。また、直ちにはCT検査がされなくても、入院措置がとられて医師の管理下に置かれるか、あるいは安静を保つようにとの医師の強い指示により、死亡の原因となった重篤な血腫の形成が避けられた可能性がある。

(1) 脳内出血に基づく症候の発現

左前頭葉に生じた皮質下出血は、文献上、前頭部痛、片麻痺、注視麻痺、共同偏視、傾眠状態などを伴い、一過性の行動異常、不安、興奮状態、俳徊等を示すとされており、多数の皮質下出血症例の調査報告でも、発症時の症状としては頭痛が多い。また、左前頭葉が人の精神機能を司る部位であることから、同所に病変がある場合、失見当や判断力の低下の症候が現れることもある。

正孝の当日の身体状況は、同僚の教諭らや児童らが気付いたものとして、次のようなものが認められる。

① 午前八時四〇分ころに職員打合会が終わってから、正孝は、担当するクラスにおいて、朝の会を行い、その後、午前八時五〇分ころから、第一時限の授業を行ったが、朝教室に入って来た時の顔色が悪く、青白い顔をして、しばらく頭を押さえていた。

② 正孝は、午前九時四五分ころから第二時限の家庭科の授業を行っていたところ、児童がエプロンの下絵を見てもらいに行ったが、机に肘をついて、頭を抱えて座り、いつもと違う気のない返事しかせず、児童に変だと思われた。

③ 昼の職員打合会は午後〇時三〇分ころに終了し、その後、正孝は職員室で仕事をしていたが、顔色が悪く、同僚の教師に何という顔色だろうと思われた。

④ 昼食の時、正孝は、同僚の沼本安彦教諭に対し、「どうも今日は疲れてひどいから替わってもらえないだろうか」と、この日に限ってポートボールの試合の審判の交代を頼んだ。

⑤ 午後一時ころ、東栄小学校へ車で出発する際、正孝は、足を引きずるような、肩を落としたような歩き方をして、同僚から顔色が悪いと思われた。

⑥ 東栄小学校へ行く車中では、正孝は、いつもと違って全く話をしなかった。

⑦ 午後一時一五分ころに東栄小学校へ到着し、同校の体育館に着いてから、キャプテンの児童が出場メンバーの確認に来た時、正孝が「えらい(疲れた)。」と言ったので、その児童が「先生、どうしたの。」と尋ねたが、返事がなく、むっつりしていた。

⑧ 東栄小学校の体育館で、正孝は同僚の宮地五郎教諭に対し、「ちょっとえらい(疲れてだるい)から、審判を替わって欲しい。」と頼んだ。しんどそうに、眼鏡の奥の方から訴えるような感じであり、肩を落としてダラッとして、声は弱々しかった。

⑨ 正孝は、午後二時ころから始まった東栄小学校と城山小学校のポートボールの試合の審判をしたが、その間に、頭を振ったり、手で前頭部を押さえたりしていた。

⑩ 審判中にトラベリングの合図をする際、正孝は、頭を垂れた感じで動作し、合図を出すのが面倒臭そうに見え、ゆっくりダラッと手を回した。

⑪ 審判中、正孝の笛の吹き方はいつもより弱く聞こえた。

⑫ 審判中、城山小学校及び東栄小学校がタイムをとった時、正孝は、二回ともしゃがんで手で頭を押さえていた。

⑬ 右ポートボールの試合の前半が終了し、ハーフタイム中の午後二時一〇分ころ、正孝は、センターサークル付近で額を押さえるようにして、ふらふら千鳥足様の状態となり、そのままサイドライン沿いの瑞鳳小学校の児童達の所へ歩いてきて、その場で膝をつき、両手を広げて児章の肩の辺りにもたれるような感じになり、一度体を支えて起き上がったが、耐えられない感じで、そのまま前にうずくまるようにして床に伏した。

右各事実のうち、①「頭を押さえていた」、②「頭を抱えて」いた、⑨「頭を振ったり、手で前頭部を押さえたりしていた」、⑫「しゃがんで手で頭を押さえていた」という事実から、当日、正孝に頭痛の症状が現れていたことは容易に推認される。

また、右②「いつもと違う気のない返事しかしなかった」、⑦「いつもと違って全く話をしなかった」、「返事がなくむっつりしていた」、⑩「ゆっくりダラッと手を回した」という様子からは、普段と異なって見当識や判断力が幾分低下していたことがうかがわれる。あるいは、軽度の意識障害(三―三方式でⅠ―一あるいは二)があったと診断できたかもしれない。

このような正孝の身体状況は、左前頭葉に皮質下出血の病変を生じた場合の症候に一致しており、正孝が第一時限の授業を始めた午前九時ころには、既に出血開始に伴う症候が現れていたといえる。そして、昼の職員打合せが済んだ午後〇時三〇分以降、二度にわたって別の教諭に審判の交代を頼んだことや、児童に対し普段と違って話しをしなかったりしたことから、正孝の身体状況は、午前中に比べて一層悪化しており、同人の脳内に生じた血腫が増大していくのに伴い、その症候も次第に顕在化ないし悪化していた状況がうかがわれる。

また、片麻痺等の症状が現れていた可能性も否定できない。

(2) 医師の診断

控訴人が午前中あるいは午後のポートボールの審判の途中までの段階で、公務の遂行を中止し、医師の診察を受けた場合には、たとえ脳神経外科医でなくても、注意深い臨床医であれば、正孝がそれまで頭痛持ちではなく、発熱、咳、喉の痛みなど風邪をうかがわせる症候もないのに、頭痛を強く訴えていることや、判断能力等の低下、あるいは、軽度の意識障害の存在を把握して、左前頭葉に脳内出血等の病変を生じているのではないかと疑ったはずである。

(3) その後の処置

ア 右のとおり、診察した医師が脳内出血等の脳病変を疑ったならば、その医師は、脳内血腫等の存否や存在する部位、大きさを正確に確認するため、手許にCTがなくても、当時CTを備えた病院などに検査を依頼したと考えられ、そうすれば、CT検査がされ、脳内出血の存在とそれが存する部位、大きさが確認され、直ちに正孝について入院処置がとられて医師の管理下において適切な治療がされたと考えられる。

そして、皮質下出血の予後は、被殻出血、視床出血等に比して一般的に良く、入院時の意識障害レベルが軽いほど、また、血腫量が少ないほど予後はよいこと、血腫量四〇ミリリットル以下の皮質下出血では、外科的手術によらなくても、内科治療によって良好な成績が得られていることなどに照らせば、正孝が、いまだ意識障害レベルが軽度で、血腫量もまだ少なかったと予想される午前中や、ポートボールの審判を始める午後二時ころまでに、入院治療を受けることができれば、内科治療だけで、死亡という結果を避けられた可能性があったというべきである。

また、正孝はハーフタイムに入る直前に大出血を起こした可能性が高いと考えられるから、ポートボールの審判開始後でも、たとえばタイムがとられた時などに審判を交代してもらい、医師の診療を受けることができたならば、死亡の原因となるほどの血腫の増大を防ぐことができ、死亡という最悪の結果を避けることができた可能性があると考えられる。

イ 仮に、直ちにCT検査を行うことができなかったとしても、脳内出血が疑われる患者に対しては、安静が重要な治療上の原則であるから、医師は、入院措置をとって管理下に置き、CT検査を行えるまで待機させた可能性がある。そうすれば、正孝の症候が悪化次第、直ちに適切な治療を受けることができ、死亡の原因となった重篤な血腫の形成に至らずに済んだ可能性があり、またそもそも、安静が確保されるだけで、重篤な血腫の形成に至らなかった可能性もある。

また、帰宅させ、様子をみることになったとしても、医師は、安静を保ち、万一症状が悪化したら直ちに来院するよう指示をしたと考えられるから、早期の再受診、治療により、あるいは安静の確保により、重篤な血腫の形成を避け得た可能性があるのである。

(二) 控訴人の主張、立証の不当性について

(1) 控訴人は、正孝の当日の状況は、日常一般に見受けられる体調不良の状態と何ら変わりのないものであり、はっきりとした神経症状を示していなかったから、医師は脳内出血を疑って直ぐに緊急CT検査を指示したりすることはない旨主張している。

しかし、控訴人のいう「はっきりとした神経症状」とは、要するに、脳内出血に伴う症候のうち、脳内出血に特有ないし特徴的な症候であって、その発現の仕方が明確である意識障害、麻痺、失語、半盲などを指すに過ぎないところ、そのような症候が現れていないからといって、医師が脳内出血を疑うことがあり得ないと断定できる根拠はどこにもない。

寺尾、馬杉両証人によれば、脳内出血に特有ないし特徴的な神経症状とは、麻痺、知覚障害、言語障害(ろれつが回らない)、視野欠損、意識障害などであるところ、それらにも様々な程度があるから、同僚教諭や児童達には気付かれなかったが、手足の軽い麻痺や軽度の見当識障害、意識障害等の脳内出血に特有ないし特徴的な神経症状が正孝に現れていた可能性と、これらの症状が医師によって診断され、脳内出血とされた可能性も決して否定できない。

(2) また、馬杉医師は、CT装置の当時の普及状態からして、脳出血が疑われ検査を必要とする患者でさえ、順番待ちのため数日間病院で待機するほどであったから、神経症状もなかった正孝について、直ちにCT検査を行うことは通常の場合あり得ないことだとも述べている(乙第九六号証)。

しかし、正孝に神経症状がなかったと断定できないことは前記のとおりであり、また、CT検査が混雑していたという一般的な事情があったにせよ、正孝について脳内出血が疑われた場合については、CT検査がされた可能性を否定することはできない。

(3) さらに、控訴人は、正孝が吐物誤嚥によって死亡した可能性は、当日の午前中に診察、治療を受けた場合も変わらなかったと主張し、その理由として、①午前中の段階において脳内出血が確認された場合でも、外科治療をしなければならなかったこと、②そのような外科治療を行えば、吐物誤嚥は誰でも起こり得たことを上げている。

しかし、右主張は、①血腫が小さい段階や意識障害が軽度の段階であれば、内科治療のみで済むことがあること、②外科治療が行われた場合でも、意識障害が軽度のより早期の段階で行われた場合ほど吐物誤嚥も当然起こりにくいということを看過した不当なものである。

3 仮に脳内出血等の脳病変の存在が疑われなかったとしても、早期の再受診、治療が可能となり、あるいは安静を保つことで、重篤な血腫の形成を避けることのできた可能性があることについて

(一) 回避可能性の存在

(1) 医師の指示

仮に、診察をした医師が正孝の脳病変を疑わず、経過をみるために正孝を帰宅させたとしても、当然安静を指示し、症状が悪化すれば直ちに再度受診するよう忠告したはずである。

(2) 早期の再受診、治療による結果の回避

医師から右のような指示・忠告を受けていれば、正孝は、万一症状が悪化した場合でも、意識を完全に失う前の早期の段階で、直ちに再受診をし、それにより医師が迅速に診断し、速やかに検査、治療へ移ることも可能であったと思われる。

(3) 安静による結果の回避

また、既に述べたように、正孝が公務から離れて安静を保っているだけで、死亡に至るほどの重篤な血腫の形成を避けられた可能性も認められる。

(二) 控訴人の立証の不当性について

寺尾、馬杉両証人は、当日の正孝の診察をした医師が脳内出血を疑うに至らなかった場合、正孝にどのような指示を与えたかについてそれぞれ証言しているが、その証言内容は、当日の正孝の健康状態が尋常でなかったことを看過した不当なものである。

寺尾証人は、脳内出血があっても、「どんどん動かします。動かしても出血しません。」などと証言する。しかし、現在では、安静第一主義に固執する余り早期治療の機会を失わせてはならないとされているだけであって、安静の重要性は今も何ら変わりがない。

また、馬杉証人は、「寝てても、血腫が大きくなるのはどんどん大きくなるんです。」などと証言する。しかし、就寝中に血腫が増大し得ることは、血腫増大が単に血圧の上昇のみの影響を受けているわけではないことを意味するにとどまるものであるから、右証言は極めて短絡的なものであり、到底採用できない。

四  その他の控訴人の主張・立証について

1 安静治療の必要性がなかったとの控訴人の主張について

控訴人は、最高裁判決によっても、正孝の「治療の機会が奪われた」という事実は未だ確定されておらず、その事実は当審において認定されるべきであるとした上、これが認められるためには、①本人に安静を保ち診察治療を受けようとする意思があったこと、②そのことを周囲の者が認識するなど、安静治療の必要性が客観的に認識し得る状況にあったことが不可欠だと主張している。

しかし、体調不良があり、「体調が悪いから休みたい」などと心の中では思っても、公務に対する責任感などから、そのような気持ちを押し殺し、無理に公務を遂行するのが一般的である。

また、控訴人が主張するような事態は、実際にはほとんど起こり得ないのであり、「治療の機会を奪われた」と評価すべき場合を控訴人主張の場合に限定することは、故意、過失を問わず広く使用者の無過失責任を認めた災害補償制度の趣旨に明らかに反するものである。

さらに、控訴人自身、従来は、正孝が当日の朝から安静治療の必要な状態にあったことを認めていたというべきであるのに、右の主張は、従前の自らの主張を棚上げし、あるいは、それを糊塗しようとするものであって、全く不当なものである。

2 公務継続の必要性がなかったとの控訴人の主張について

(一) 控訴人は、本件においては、公務継続の必要性がなかったと主張している。

しかし、右主張は、公務には、それから離れることが全く不可能とはいえない場合であっても、なお本人の担当職務や地位、当日の公務の内容、本人の責任感から、他の教員に交代を依頼して公務を離れることが困難で、身体の不調にもかかわらず無理に公務を遂行して、それが疾病の悪化をもたらす危険が内在していることを看過したものであって、災害補償制度の趣旨にもとるものというべきである。

(二) 現実にも、正孝が、他の教員に交代を依頼して公務を離れることは困難であった。

すなわち、瑞鳳小学校が新設校であったこと、その中での正孝の立場の重要性から、正孝の勤務内容は、もともと相当に密度の濃いものであった上、昭和五三年一〇月に入ってからは、ポートボールの指導や修学旅行で、一層繁忙の状態になっていた。そして、被災当日の忙しい状況をも併せると、正孝が受診のために職場を離れることや、代替教員による授業を要請することは困難であった。

また、控訴人が主張する他の教員らは、適当な交代要員とはいえず、現実に審判を交代してもらうことは困難であった。他校の教員に審判を交代してもらうことも、本来二名で行う審判を正孝一人で行っていたことに照らせば、これまた実際には極めて困難であった。

(三) 正孝は何ら治療機会を喪失しておらず、死因は吐物誤嚥であるとの控訴人の主張について

この点は既に決着済みであるが、念のため付言する。

正孝の意識レベルは、脳卒中の外科研究会の要請により策定された高血圧性脳出血の神経学的重症度分類(甲第二〇号証)で評価すると、4bに相当するもので、一般に手術予後は極めて厳しいものとされているレベルであった。そして、手術自体は成功したが、手術前に脳に加わっていた障害の程度がある閾値を超えていたため、手術後も重篤な状態が続いていたのである。したがって、これらの点からしても、控訴人の前記主張は理由がない。

第三  証拠

証拠に関する事項は、原審及び当審の証拠に関する目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求原因1の事実のうち被控訴人に係る部分、及び請求原因2(正孝の死亡)の事実は、当事者間に争いがない。

また、被控訴人が取消しを求める処分(本件処分)が、控訴人が昭和五四年一二月二五日付けでした公務外認定処分であると解するのが相当であることは、原判決がその六三枚目裏末行から同六四枚目裏一〇行目までにおいて説示するとおりであるから、これを引用する。

二  正孝の死亡原因及び特発性脳内出血の発症と正孝の死亡との因果関係について当裁判所も、正孝は特発性脳内出血を発症し、脳内血腫除去手術後、吐物誤嚥による呼吸不全により死亡したものであるところ、右特発性脳内出血と正孝の死亡との間には相当因果関係があると認めるのが相当と判断する。その理由は、次のように当裁判所の判断を付加するほか、原判決がその六五枚目表二行目から同六六枚目裏六行目までにおいて説示するとおりであるから、これを引用する。

(当裁判所の判断)

控訴人は、特発性脳内出血と吐物誤嚥による死亡との間には相当因果関係がないと主張している。

しかし、原判決記載の証拠に原審証人神野哲夫の証言を併せると、意識障害があり自力での摂取能力のない患者においては、吐物を誤嚥し、これが気道を閉塞することがままあり、時としてこれにより死に至ることがあること、そのような事態に対応して事前事後の医療措置が適切に実施されることにより最悪の事態を回避できる場合も多いものの、本件のような事態も皆無とはいえないこと、正孝の手術は成功したものの、吐物誤嚥が発生した昭和五三年一一月三日(手術六日後)当時同人は依然として重篤な状態にあったといえることなどが認められ、公立陶生病院の措置に重大な不手際があったと認めるに足りる事情もないから、結局、正孝に発生した吐物誤嚥及びこれによる死亡という事態は、当時の同人の病状が持つ固有の危険の一つが、その通常の経過をたどって発現したものと認めるのが相当である。よって、正孝の特発性脳内出血と吐物誤嚥による死亡との間には、相当因果関係があると認めることができる。

三  正孝が発症した特発性脳内出血の状況、特発性脳内出血の病態、発生原因及び発症機序等について

1  証拠(甲第七号証、第一五号証、第一七号証、第一八号証、乙第二二号証、第五一号証、第六五号証の一から五まで、第八五号証、第八六号証、第九三号証、第九四号証、第九八号証の一、二、第九九号証の一、二、第一〇〇号証の一、二、第一〇一号証の一から三まで、第一〇二号証、第一一三号証、原審証人堀汎、原審及び当審証人神野哲夫、当審証人寺尾榮夫、同馬杉則彦、同古瀬和寛)によれば、正孝が発症した特発性脳内出血の状況、特発性脳内出血の病態等について、次の事実を認めることができる。

(一)  正孝が発症した特発性脳内出血は、左前頭葉から頭頂葉にかけての皮質下に出血した「皮質下出血」である。

一般に皮質下出血は、脳内出血の内では、比較的軽いものが多いとされ、いったん出血があっても、本人の自覚がないうちに止血機構が働いて止血し、後になって何らかのきっかけでそのことが確認されることもある。また、CT検査等により皮質下出血が確認されても、手術に至ることなく、内科的治療によって対処されることもあり、外科的手術が実施された場合(正孝の場合はこれに当たる。)でも、一般に、他の脳内出血に比較して予後はよいとされている。この皮質下出血は、高血圧性脳内出血や脳動脈瘤破裂等に比べると、数が少ない。

(二)  正孝の皮質下出血については、公立陶生病院における脳血管撮影によっても、出血部位及び出血病変を確認することができなかったため、「特発性脳内出血」(その意味内容は後記のとおり。)と診断された。手術によって摘出された血腫量は、約五五グラムであり、血腫の量としては、中等度からやや多い程度という評価になる。なお、手術においても、正孝の正確な出血部位や、出血の原因となるような脳動静脈奇形は、確認されなかった。

右の手術は成功したと評価することができ、本件の証拠を検討して証言し、あるいは意見書(書証)を提出した医師の多くは、そのまま順調に推移すれば、正孝は、身体の一部に麻痺などの後遺症は残存するにしても、社会復帰できる可能性があったと判断している。

(三)  「特発性脳内出血」とは、出血傾向や高血圧症等の既往症、外傷、腫瘍、脳動脈瘤、脳動静脈奇形などの明らかな原因が認められない脳内出血の総称である。ところが、最近では、脳血管撮影やMRI検査の進歩等により、従来は原因が確認されない脳内出血として「特発性脳内出血」と診断されていた事例のうちに、脳内微小血管腫様奇形が発見されるようになったことから、特発性脳内出血とは、普通の血管撮影では発見されないような脳内微小血管の先天的な血管腫様奇形が存在し、これら脆弱で破裂しやすい状態になっている右血管部分が破裂して発生した脳内出血、あるいはこれを仮定した原因不明の脳内出血であると考えられるようになった。

この特発性脳内出血は、高血圧性脳内出血に比べると、若年層に比較的多く見られる疾患であることが、研究者によって指摘されている。

(四)  特発性脳内出血の発生部位は、普通の脳血管撮影では確認できない微細血管付近であるが、最近の検査技術の進歩等により、その血管腫様奇形の状況がある程度分かるようになってきた。

脳の血管は、まず動脈系は、脳の底部から入ってきた内頚動脈(直径約四、五ミリメートル)から、中脳大動脈(直径約三ミリメートル)を経て、次第に枝分かれし、小動脈(直径一ミリメートルから五〇マイクロン程度)、細動脈(直径三五マイクロンから一〇マイクロン程度)から、毛細血管(直径八マイクロン程度)となり、その後静脈系は、細静脈、小静脈からより太い静脈となっている。

特発性脳内出血の原因となる血管腫様奇形は、細動脈から細静脈にかけての部位に発生するもので、その形状は、毛細血管がなく、細動脈と細静脈が直接つながったような状態で、毛糸玉のように複雑な形状になっていることが多く、血管の屈曲の仕方も滑らかでない場合も多い。奇形部分の血管は、構造的には、本来の動脈でも静脈でもないものである場合が多く、血管壁が薄く、生化学的あるいは生理学的にみて、正常な血管に比べて変性しやすい。

幼少期には、このような血管でも破裂することはないが、年月を経るうちに、血流の衝撃を受けやすい部分等の血管壁内に血漿(血液の液体部分)が浸潤し、壁内で硝子様変性、あるいは類線維素変性という生化学的な変性を起こし、血管の脆弱化、壊死を引き起こすと考えられている。そして、このように血管の変性、脆弱化、壊死が一定のレベルに達すると、その血管が破れ、脳内出血を起こすと考えられる。

(五)  微細血管の血管腫様奇形から出血する特発性脳内出血においては、脳動脈瘤の破裂などとは異なり、通常一気に大量の血液が血管外に出血するものではなく、血管壁から少しずつ漏出するように出血する。脳動脈瘤からの出血は、急激に激しい頭痛、嘔吐、意識障害等の症状を引き起こすが、特発性脳内出血の出血初期には、軽い頭痛、無気力、だるさ、違和感、情緒・感情障害等の非特異的な愁訴しかなく、脳内の血腫が増大するのに伴い、麻痺、失語、半盲、意識障害等の神経症状ないし神経学的欠損症状が出現するという経過をたどるのが普通である。

正孝には、発症当日に至るまで、特発性脳内出血の原因となる先天的血管腫様奇形について他覚的所見及び自覚的症状は全くなく、また、そこからの出血をうかがわせるような症状も全くなかったのに、後記のように、その当日の朝から、同僚教諭、児童等周囲の人達からみて普段と異なる行動、すなわち身体の不調を示すと解される行動がそれまでと異なってみられたことから、前記のような特発性脳内出血の発症に関する医学的知見に照らすと、同人の脳内出血は、当日の朝ないし午前中に始まったと考えられる。そして、同人の脳内出血は、前述の特発性脳内出血の病理から考えて、細動脈から細静脈にかけての部分から出血したものと認められる。

そして、後記のとおり、正孝は、午後二時前ころから始まったポートボールの試合の前半が終了したハーフタイム中の午後二時一〇分ころ、急に意識障害や半身麻痺を起こした。この発症の仕方に照らすと、午後二時一〇分ころの直前に大出血が起こり、その出血が脳室内に穿破し、このことにより急激に(一、二分というレベルで)意識障害等の神経症状を起こしたものと考えられる。

2  次に、特発性脳内出血発症(血腫の増大を含む。)の原因、機序について検討する。

(一)  差戻後の当審においては、本件最高裁判決の説くところに基づいて、正孝の特発性脳内出血の開始後の公務の遂行が、死亡の原因となった大出血(重篤な血腫の形成)を起こす原因となったかどうか、そして、公務に従事して治療の機会が奪われたことにより、死亡するに至ったといえるかどうか、という点が中心的な争点である。そして、この争点について、当事者双方は医学経験則ないし医学的知見の立証を行ったが、その立証の中心となるのは、控訴人側は、寺尾榮夫医師(医療法人西横浜国際総合病院名誉院長)の意見(当審における同医師の証言及び同医師作成の乙第八五号証、第九三号証、第一一三号証の各意見書)であり、被控訴人側は、古瀬和寛医師(中津川市民病院院長)の意見(当審における同医師の証言及び同医師作成の甲第一五号証の意見書)である。

寺尾医師は、正孝の血腫増大の原因は、局所の静脈還流障害という病態生理学的過程によるものと考えるのが最も適切であり、また全身血圧との間には因果関係が認められないから、正孝がポートボールの審判等の公務を遂行したことによって血腫が増大したものとは考えられない、としている。

他方、古瀬医師は、肉体的・精神的負荷が全身血圧の上昇をもたらすこと、及び全身血圧の上昇が頭蓋内血腫の増大に関与することは、医学経験則上明らかであるとし、発症当日の出血後、正孝が公務に就かずに休息をとることができれば、出血が血腫増大のある段階で止まった可能性があり、また、医師の診察を受ければ、重篤な血腫形成に至らなかった可能性がある、としている。

そこで、以下において、特発性脳内出血の開始及び血腫の増大の原因、その機序について検討する。

(二)  証拠(甲第一四号証、乙第七七号証、第七九号証、第八五号証、第九三号証、第九四号証、第九八号証の一、二、第九九号証の一、二、第一〇七号証、第一一一号証、第一一三号証から第一一五号証まで、原審及び当審証人神野、当審証人寺尾、同古瀬)によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 特発性脳内出血及びその血腫増大が、どのような状況下で、どのような原因、機序で起こるのかを直接対象にした研究はないと言っても過言ではない。その理由は、特発性脳内出血の症例数が多くないこと、出血の態様が明確でないこと、血管腫様奇形と動脈瘤との構造が大きく異なり、明確な原因を把握しにくいことなどから、研究者が研究対象として取り上げないことによるものと推測される。

しかし、以下に述べるような研究、調査等から、ある程度その原因を推測し、認識することができる。

(2) アメリカのSzaboらは、一九八九年に発表した論文で、血圧上昇と脳動静脈奇形からの出血との関係について、おおむね次のように述べている(なお、この研究の対象となった脳動静脈奇形は、病態生理、病理的構造において、脳動脈瘤よりもはるかに血管腫様奇形に近いと考えられる。)。

著者らは、二〇年間に、ハーバード大学のマサチューセッツ総合病院で、一〇〇〇例の脳動静脈奇形の陽子線照射治療を行ってきた。この治療では、脳定位装置を麻酔の前処置を行わずに局所麻酔で装着するが、その際血圧は上昇する。最近の五六例について、この処置に際しての血圧変動を測定したところ、収縮期血圧は四四mmHg(三八%)上昇し、平均血圧では三二mmHg(三七%)上昇した。二一%の患者で、収縮期血圧は六〇mmHgも上昇した。著者らは、この二〇年間、治療の仕方を変えていないから、他の例でも同様な血圧上昇が起こっていたと考えられるが、右の一〇〇〇例について、脳動静脈奇形からの出血は一例も経験しなかった。したがって、このような中程度の血圧上昇では、脳動静脈奇形からの出血は惹起されない。

(3) 愛知県にある藤田保健衛生大学脳神経外科においては、昭和四五年から昭和六二年までの間に五〇例の特発性脳内出血の患者の治療に当たったが、発症時の状況について事後に調査したところ、昼間に通常の生活の中で突然発症したものが二九例(58.0%)、排便時が四例(8.0%)、食後四例(8.0%)、運動負荷時が三例(6.0%)、起床時、睡眠中、飲酒中がそれぞれ二例(4.0%)などとなっている(そのような結果から、同大学脳神経外科の神野哲夫教授は、原審及び当審において、「何の予告もなく突然血管が破れる。睡眠中にも、入院安静時にも起こり、原因は分からない。」と証言している。)。

(4) 前示のとおり、正孝の特発性脳内出血は、当日の朝ないし午前中に出血が開始して、最終的に午後二時一〇分ころ、血腫が急激に増大して意識障害等を起こしたものと考えられるが、出血後どのような経過で大出血巣を形成するのか、すなわち、出血開始後どのような経過で血腫が増大して大出血になるのかについて、参考になる文献として、次のようなものを上げることができる。

なお、いずれの文献も、高血圧性脳内出血を対象としたものであるが、先天的な血管腫様奇形による出血開始後の血腫増大の機序も、出血が始まった後においては、基本的には変わらないとみることができる。

ア 吉田洋二山梨医科大学教授(当時)の「高血圧性脳出血の病理」(一九八五年)(吉田論文)は、大出血巣の形成過程について、おおむね次のように説明している。

大出血巣の形成については、動脈からの出血のみならず、静脈や毛細血管からの出血をも重要視する三源説が、最も真実に近いように考えられる。細血管からの二次性出血の機序は、破綻動脈や破綻動脈の属する動脈系に血管痙攣、血栓形成、血行停止などによる循環障害が起こり、その結果、細小血管に急激な透過性亢進が生ずるためと考えられている。大出血巣の形成過程にこの二次性出血は極めて重要であると考えられる。また、静脈からの出血は、脳腫脹や脳内血腫に起因した静脈の還流障害によって静脈圧が亢進して生ずるといわれ、その結果、動脈の支配領域を逸脱した大出血巣を形成するとされ、出血巣内に静脈の類線維素変性や破綻を見ることができる。

イ 山村武夫東京歯科大学助教授(当時)の「高血圧性脳出血の発生機転に関する研究―超軟X線および病理組織学的連続切片作製法による検索」(一九六六年)(山村論文)では、高血圧性脳出血の発生機転を次のように説明している。

動脈が脳に穿入して約二センチメートルの部位にまず最初に破綻が起こり、この出血が原因となり血管攣縮その他が起こり、破綻した動脈あるいはこの動脈が属する動脈系の分布領域に循環障害(低酸素状態)が生じ、この領域の脳実質あるいは血管に変性ないし壊死が起こり、次いで、この領域内に、血管を中心として多発性に漏出性及び破綻性出血が起こる。そして、これら小出血巣は融合して、破綻した動脈ないし同一動脈系の分布領域に一致した大出血巣を形成する。続いて、出血巣は、静脈性還流障害による出血により、周囲に拡大する。

ウ 前記の吉田洋二教授は、脳血管病変について世界的に著名な研究者であり、大出血巣の形成過程に関しては、出血後の還流障害、特に静脈還流障害が血腫増大の大きな原因であるとする右ア、イのような考え方が、現在では学会で広く受け入れられるようになってきている。

(5) 正孝の発症した特発性脳内出血において破裂した血管は、細動脈、細静脈(直径三五マイクロンから一〇マイクロン程度)の部位の血管に相当するが、細動脈の平均血圧(拡張期血圧に、収縮期血圧から拡張期血圧を差し引いた三分の一の数値を加えた数値。たとえば、収縮期血圧が一二〇、拡張期血圧が六〇の場合は、平均血圧は八〇となる。)は、一五mmHgから三五mmHg程度で、非常に低い値になっており、また全身血圧の変動の影響を受けにくい。

(6) 脳には、血流の自動調節機能があり、全身血圧(平均血圧)が六〇mmHgから一六〇mmHg(又は一五〇mmHg)の間にある場合には、全身血圧がどのように変動しようと、脳内の血流量は一定に保たれている。

(7) 全身血圧の変動が、血腫増大の要因になるかどうかについては、最近発表された次の二つの研究が参考になる。この二つの研究は、CT検査により血腫増大の有無が明確になっている多数の症例に基づき、血管の病理、年齢、性別、血圧、出血部位、血液凝固機能等、出血の継続と停止に関与すると考えられる諸因子を検討したものである。

ア 藤井論文(乙第九九号証の一、二)(一九九四年)は、自然に発症した脳内出血の事例で、発症してから二四時間以内に最初のCTが撮られ、さらに入院後二四時間以内に二回目のCTが撮られた四一九例について、血腫の増大と、発症からの時間、出血の部位、全身血圧、肝機能障害、血腫の形と大きさ、生化学検査データ、臨床的結末との関係を調査し、統計的分析により血腫増大に対する危険因子を解析したものである。同論文は、おおむね次のような結論を得ている。

すなわち、全身血圧としては、入院時の収縮期血圧を用いて調査した。これによれば、入院時の収縮期血圧が高いと血腫増大の頻度も高くなるという関係にあるが、他方では、収縮期血圧は発症から入院までの時間が短いと有意に高かった。症例を発症からの経過時間別に分類した五群のグループごとにみると、血腫増大のあったものと無かったものとの間では、いずれの群においても、入院時の収縮期血圧との間には有意な差異は見いだせなかった。結局、自然に発症した脳内出血の血腫の増大は、神経症状の初症からの経過時間の長さ、血腫の形と大きさ、肝障害の有無、止血機能に大きく関連し、全身血圧と血腫増大との間には関連付けができなかったとしている。

イ 高尾論文(乙第九八号証の一、二)(一九九五年)は、自然に発症した脳内出血の急性期に入院し、発症後三時間以内に最初のCT検査を受けている一三八の症例について、その後の血腫の増大の有無、症状悪化の有無と、影響が考えられる諸因子との関係を検討したものである。同論文は、おおむね次のような結論を得ている。

すなわち、血腫の増大は、発症からの時間に依存している。血圧は、入院時、発症後六時間、発症後二四時間に測定して検討したが、血腫増大の患者グループと血腫増大のなかった患者グループとの間には、血圧(収縮期、拡張期)に有意な差はなかった。また、この検討では、血腫増大は、出血の部位と性別に関連があることが示された。

(8) 人の血圧は一日のうちでも、様々な日常行動や精神的活動により大きく変動する。たとえば、高血圧症患者の例であるが、洗面で平均三二、排尿(立位)で三二、排便(和式)で七七、階段昇降で五七、医師との会話で三七、くしゃみで四八、それぞれ最大血圧が上昇したという調査結果がある。

(三)  特発性脳内出血の出血開始の要因(特に全身血圧の上昇との関連)について

前記1の事実及び右(二)の事実に証拠(乙第八五号証、第九三号証、第一一三号証、当審証人寺尾)を併せると、特発性脳内出血は、脳内の細動脈から細静脈にかけての部分に先天的に存在する血管腫様奇形が長い期間に生化学的に変性し、脆弱化して発生するもので、出血の機序は、基本的な部分でそのような血管腫様奇形に基づく生化学的作用に依存しているということができる。

そして、血圧はもともと生命維持のために必須な生体の基礎的生理作用であり、全身血圧は日常の生活においても、相当の範囲で変動を繰り返すこと、また、正孝の発症した脳内出血は、全身血圧の影響をほとんど受けない部位である細動脈ないし細静脈に発生したものであること、脳には脳血流自動調節機能があって、その意味でもその部位はたやすく全身血圧の変動を受けにくいことが指摘でき、従来の臨床経験においても、また医学的研究においても、全身血圧の上昇が血管腫様奇形の破裂の原因として考えられてこなかったことなどをも考えると、全身血圧の上昇が血管腫様奇形部分の脆弱性を促進し、あるいは全身血圧の上昇がその血管部分の破裂を引き起こすことが全くないとは断定できないとしても、特発性脳内出血は、通常は自然に発症したと評価するのが妥当なものがほとんどであると認められる。

なお、原審証人堀汎並びに原審及び当審(差戻前)証人神野哲夫は、特発性脳内出血と血圧の上昇との間には関連があるとの趣旨の証言をしているが、右各証言は、血圧により血液が血管内を循環しているからこそ、それが一つの要因となって、右のような血管壁の脆弱な部分を形成し、そこから出血が発生するといえる側面があることを一般的に表現しているにすぎず、右に検討してきたような医学的諸研究を踏まえ、具体的な根拠をもってそのように証言するものではないから、これらの証言は、この点についての右説示を左右するものではない。

(四)  特発性脳内出血開始後の血腫の増大の要因(特に全身血圧の上昇との関連)について

(1)前記1の事実及び右(二)の事実に、証拠(乙第八五号証、第九三号証、第一一三号証及び当審証人寺尾)を併せると、特発性脳内出血における出血開始後大出血が起きる機序は、次のような病態生理学的過程であると理解するのが相当と考えられる。

すなわち、長年の血流負荷による血管壁変性により、細動脈ないし細静脈の血管奇形部分に小出血が起き、周囲に小さな血腫を作る。時間が経過するにつれて血腫が半凝固状態となり、また代謝異常による浮腫や腫脹も発生し、これらが周囲の血管、特に静脈(導出静脈)を圧迫して、還流障害を起こす。その結果、奇形血管が極度に拡張し、急激な透過性亢進が生じ、破裂しやすい状態となり、これが極限に達すると、血管壁の弱い部分が次々に破裂して、大血腫を形成する。なお、大出血の前提となる右の小出血は、何度か発生することも考えられる。

前示のように、特発性脳内出血の原因となる細動脈、細静脈は、極めて細い血管であり、そこからの一度の出血だけでは大血腫を形成することの説明がつかないし、病態として、そのような出血に対し止血機構が働いて止血され、何ら病状を現さない事例があることからも、このような理解は合理的と考えられる。

そして、前示のように、特発性脳内出血が発生する細動脈、細静脈は、全身血圧の影響をほとんど受けない部位の血管であり、また脳血流自動調節機能によって、その部位は全身血圧の変動を受けにくいこと、統計学的な手法に基づく最近の二つの研究においても、全身血圧の高さないし上昇は、血腫の増大と有意な関係にあるとされてはいないことなどを考慮すると、血腫の増大に全身血圧の上昇が全く関与しないとまでは断定できないにしても、出血開始後の血腫の増大は、通常は、前記の病態生理学的な原因、機序により、全身血圧の上昇とは有意な関連性を持たないで、引き起こされると解するのが相当である。

(2) 被控訴人は、藤井論文のいう血圧と血腫との関係は、入院時の血圧のみに基づく限られた結論であり、脳内出血開始後の公務遂行が血腫増大に与えた影響の有無の論証にはならないと主張し、古瀬当審証人も同旨の証言をしている。

しかし、同論文は、四一九例という多数の症例を発症からの経過時間ごとに五群に分類し、どのような時間が経過したものであっても、全身血圧の高さは、血腫の増大には影響がないとしているものであるから、この結論は、医学的に意味のある結論というべきである。被控訴人の右主張は理由がない。

また、被控訴人は、高尾論文について、同論文の血圧の測定は各症例の患者ごとの血圧の変化ではなく、各グループの平均値を論じているに過ぎず、患者ごとの血圧の変化をみていないから、適切な結論を導くことができない旨主張し、古瀬証人も同旨の見解を述べている。また、被控訴人は、血腫増大グループに皮質下出血はないから、同論文の結論は皮質下出血には当てはまらないとも主張する。

しかし、同論文は、科学的結論を得るため、一定の統計的処理をしているものであるから、被控訴人のいう点が、同論文の結論の価値を損なうものということはできない。また、皮質下出血は、前示のとおり、出血の部位からして、血腫増大があったとされる被殻出血、視床出血、橋出血に比べて全身血圧の影響をより受けにくいと考えられるから、全身血圧と血腫増大についての同論文の結論は、皮質下出血にも妥当するものと考えられる。被控訴人の右主張は理由がない。

(3) 古瀬証人は、全身血圧の上昇が血腫の増大に関係することは、医学経験則である旨証言しており、その根拠の一つとして甲第二二号証(弘前大学脳神経外科岩渕隆医師の「被殻出血」についての特別報告)(一九九〇年)を挙げている。

甲第二二号証は、「調査結果」の項で、血腫の増大と初回CT検査時における収縮期血圧との関係について触れ、血圧の高い方が血腫増大の可能性も高いとしている。しかし、ここで血腫が増大した症例は、すべて初回CT検査時から六時間以内に血腫が増大しており、同報告も、「血腫の増大は、起こるとすれば其の大部分は六時間以内と想像された。」とまとめているように、血腫増大は、発症からの時間と関係するとの藤井論文の結論と一致しているということができる。そして、同報告自身、「まとめ」としては、血腫増大と血圧の関係について何ら言及していないから、同報告をもってこの関係が論証されているということはできない。

また、古瀬証人は、「今日の治療指針」(甲第一一号証から第一三号証まで)を、血腫増大と血圧との関係を論証する根拠として挙げている。

しかし、右「今日の治療指針」は、「日常臨床の場に必要不可欠な情報を実践重視の簡潔な記載で、しかも常に最新の知識に基づいて提供する」ことを目指した「治療年鑑」という性格のもので、血腫の増大と血圧との関係について直接論じた論文ではないし、血圧の管理についても、その趣旨は、要するに、状況に応じて適切な範囲にコントロールするということに尽きるものであると認められるから、血腫の増大と全身血圧の上昇との関係についての当裁判所の前示判断を左右するものではない。

(4) また、前記堀証人及び神野証人の各証言も、前示のような理由で、当裁判所前記判断を左右しない。

四  正孝の特発性脳内出血開始の公務起因性について

1  前示のとおり、特発性脳内出血は、脳の細動脈、細静脈に先天的に存する血管腫様奇形による病変が、生化学的に変性することを基礎として発生するものであり、日常生活の中で、自然に発症するものが大半であるということができる。

しかし、血圧の上昇が先天的な血管腫様奇形部分の脆弱性を促進し、あるいは血圧の上昇がその血管部分の破裂を引き起こしたと評価できる場合が全くないとは断定できない上、証拠(原審証人宮尾、当審証人古瀬)と弁論の全趣旨によれば、労働の肉体的精神的負荷が血圧の上昇を引き起こすことがあることが認められるから、結局、本件においては、医学経験則を踏まえ、公務による過重な負荷が、正孝の脳の細動脈、細静脈における先天的血管腫様奇形による病変ないし疾患(ただし、これについては、前示のとおり、本件発症まで、他覚所見及び自覚症状は全くなかった。)を自然的経過を超えて著しく急激に増悪させたことにより、右出血が開始したと認められる場合には、これにより公務に内在する危険が現実化したものとして、公務と特発性脳内出血の開始との間に相当因果関係があり、特発性脳内出血の開始について公務起因性があると認めるのが相当である。

そこで、このような観点から、以下において検討する。

2  正孝の勤務状況

証拠(乙第六号証、第九号証から第一八号証まで、第四九号証の一、第五二号証の一から五まで、第五三号証から第五六号証まで、第五八号証、原審証人加藤孝二、同小塚裕子、同伊藤泰子、同宮地五郎、同川崎伊親、同野田真治、原審被控訴人)と弁論の全趣旨によれば、正孝の勤務状況として、次の事実を認めることができる。

(一)  瑞鳳小学校における正孝の地位及び校務分掌

正孝は、昭和四二年四月教員として採用され、昭和五三年四月一日付けで、尾張旭市立白鳳小学校から、新設された同市立瑞鳳小学校に転勤した。同人は、瑞鳳小学校では、六年一組の学級担任で、かつ、二組ある同学年の学年主任であった。六年一組は標準的な一クラス生徒数よりかなり少ない二四名の中規模クラスであり、同人は、同組の授業のうち音楽と書道を除く週三〇時間を担当してきたほか、校務分掌上は、社会科主任、視聴覚教育主任、特活指導の責任者、児童活動の責任者、児童会主任、クラブ担当、企画委員会委員、環境構成委員会委員を務めてきた。ただ、これらの各種校務分掌は、同小学校における学校管理案に基づき、各教職員によって分担されるもので、経験の浅い教諭に比べ、同人の負担が多いことがあったとしても、同人にだけ負担が集中していたわけではなかった。なお、小学校教諭には一般的なことであるが、同人には授業時間以外にも、朝の会、給食指導、清掃指導などの職務もあった。

瑞鳳小学校は、新設当時、児童数四六四名、教職員数二二名(内教員数一九名)の中規模校であったが、新設校ということもあって、伝統のある既設校と異なり、教育上及び学校運営上、また、新たな校風作りの点でしばしば新規の対応を余儀なくされることがあり、教職員の負担は既設校よりもある程度重くなっていた。しかも、正孝は教員歴一二年目、年齢も三四歳という中堅教員であり、かつ、生来の生真面目な性格と恵まれた健康と相まって、前記の各職務を熱心にこなし、上司同僚の信望を集めていた。

(二)  勤務時間

正孝の勤務時間は、原則として月曜日から金曜日までは午前八時三〇分から午後五時一五分まで、土曜日は午前八時三〇分から午後〇時三〇分までであり、日曜日は勤務を要しない日とされていた。授業時間は、一時限四五分間で六時限(土曜日は三時限)あり、各授業時限間に五分間ないし二〇分間の放課があり、また、放課と並行して午前一〇時三〇分から午前一〇時五〇分まで及び午後五時から午後五時一五分までの休息時間並びに午後一時一〇分から午後一時三〇分までの休憩時間が設けられていた。

正孝の昭和五三年四月以降の実際の勤務時間は、おおむね所定勤務時間内に留まっており、特発性脳内出血発症に至るまでの同年一〇月中の勤務時間(ただし、修学旅行日は除く。)は、後記ポートボールの練習指導のため、一〇月一一日以降の出勤が午前七時四五分ころと早くなり、同月一四日、二一日の各土曜日の退勤時刻が午後四時ころと遅くなったものの、平日の退勤時刻はほぼ定時の午後五時一五分ころであった。また、所定の休日に勤務をしたのは、運動会が開催された一〇月一日(日曜日)の一日だけであり、これに関しては翌一〇月二日が代休に当てられた。

(三)  ポートボールの練習指導

尾張旭市においては、毎年一一月に尾張旭市教育委員会の主催で市内小学校の球技大会を開催しており、男子はサッカー、女子はポートボールの対抗試合を行うことになっていた。瑞鳳小学校でも、これに対応して、昭和五三年五月一五日の職員会議で、水泳や陸上競技及びこれらの球技についての指導態勢を決定し、ポートボールについては正孝を含む七人の教諭が指導担当者に選任された。正孝は、学生時代にバスケットボールをしていた経験を持っており、前任校ではサッカーの指導を担当していたことから、指導教諭の中では中心的な立場に立つことになった。そして、その後の練習の大部分は、正孝の指導で行われ、他の教諭は適宜これを補助する程度であった。指導時間は、一〇月初旬以降全試合が終了するまでの間、平日は午前七時四五分から八時二五分までの四〇分間と、午後三時三〇分から四時三〇分までの一時間、土曜日は午後一時三〇分から四時までと定められた。

正孝は、当初の予定に従い、一〇月一一日午前から、選手に選ばれた女子児童を対象に練習を始めた。そのため、正孝は、起床時刻を若干早め、午前中四五分の時間外勤務をした。午後の練習は午後四時三〇分までの予定であったが、午後五時ころまで練習をしたこともあった。

一〇月二一日(土曜日)は、白鳳小学校で対外練習試合を行い、午後三時五〇分ころ帰校した。

このような練習指導は、同日以降、日曜日、修学旅行前日の二三日の午前午後、旅行当日である二四日、二五日の各午前午後、翌二六日の午前及び愛日教育研究集会の行われた二七日午後を除いて予定どおり行われ、正孝はこれらの練習指導のすべてに当たった。

(四)  修学旅行

(1) 尾張旭市立の各小学校では、定例的に修学旅行を行ってきたが、瑞鳳小学校でも、昭和五三年一〇月二四日及び二五日に、一泊二日の予定で、同市立の他の二小学校と合同で奈良・京都方面へバスによる修学旅行を実施した。瑞鳳小学校の参加児童数は二クラス合計で四八名、引率者は、責任者の野田真治校長と、深谷千嘉子教諭、小塚裕子養護教諭、正孝の四名であり、他に旅行会社の添乗員一名が同行した。

修学旅行は、教育課程の一環として全国の小学校で行われているものであるが、あくまでも学習活動の一部であるから、その実施に際しては、学習効果をより高めるために、事前の準備を行い、事後においてもその効果を失わせないように指導することが要求された。正孝は、六年の学年主任であることから、事前の下見を始め、父兄や児童に対する説明等を中心的に行い、その他「修学旅行のしおり」や「京都奈良資料集」を深谷教諭や児童達とともに作成する等の準備をした。しかし、代償休養時間二時間をそのために使ったほかは、これらの準備のために時間外勤務をしたり、ポートボールの練習指導を変更しなければならないというようなことはなかった。

(2) 一〇月二四日の修学旅行当日、正孝はあらかじめ決められていた午前五時三〇分までに出勤して勤務に就き、午前六時児童らとともにバスで瑞鳳小学校を出発した。そして、午前一〇時から一二時まで見学を兼ねて法隆寺で休み、昼食をとった。午後は若草山、平安神宮見学などを経て、予定の午後四時四五分よりもかなり早く宿舎の御殿山荘に到着した。入浴、夕食をすませ、午後一〇時ころ児童を就寝させてから、引率教員による翌日の打合せが行われた。児童の就寝中に、正孝は三回、野田校長は二回それぞれ男子児童室の巡回をしたことから、正孝の当夜の睡眠時間は約四時間であった。二五日朝は、午前五時三〇分ころ起床し、朝食をとった後午前七時三〇分ころ宿舎を出発し、京都の清水寺、二条城などを見学して、午後五時四五分ころ瑞鳳小学校に帰着し、間もなく解散した。

右の修学旅行は、途中事故もなく、予定どおりの日程・行程で実施された。同行した野田校長の見た限りでは、旅行中の正孝は、他の教員と同様、二五日の朝に眠そうにしていたほかは、極めて元気で、活発に活動していた。

(3) 正孝は、解散後午後七時前ころ帰宅し、妻(被控訴人)に「疲れたがいい旅行だった」と洩らして、入浴後ウィスキーをダブルで二杯ほど飲み、普段の就寝時刻(午後一一時ころ)よりも早く、午後九時ころ就寝し、約一一時間の睡眠をとって、翌朝午前八時ころ起床した。尾張旭市においては、修学旅行の引率教職員には、回復措置として、旅行の前後四時間の代償休暇が与えられていたが、同人は事前の二時間については前記の旅行準備のためにこれを取得することができず、事後の二時間は取得することができたが、一時間早い午前九時三〇分ころに出勤した(もっとも、同人は、起床したすぐ後、妻を勤務先まで送っている。)。

(4) 右の修学旅行は、定例的なものであり、スケジュールも児童の体力に合わせて設定されており、かつ、同年六月にはコースの下見をしていること、引率児童数も手頃であったこともあり、標準的な体力を有する引率者(正孝もこれに属する。)にとっては、極端に重い肉体的負担を伴うものではなかった。

(五)  愛日教育研究集会

同研究集会は、愛日地区の公立小中学校教諭全員の参加を予定する研究会であるが、正孝は、昭和五三年一〇月六日午後三時三〇分から尾張旭市立城山小学校で開かれた研究会に出席し、さらに、同月二七日に同市立東中学校で開催された特別教育活動研究会において、瑞鳳小学校の学級会活動の実態について発表することになった。同月二六日は、午前八時三〇分から午前一〇時三〇分まで修学旅行の回復措置が取られていたが、正孝は、右のレポート作成等の準備のため、午前九時三〇分ころには登校してレポートの作成に従事し、授業時間後も発表の準備をしていた。そして、二七日(金曜日)午後一時から午後三時五〇分まで、尾張旭市立東中学校において開催された愛日教育研究集会特別教育活動研究会の場で、右レポートに基づいて発表し、その後研究協議に参加した。なお、右特別教育活動研究会には、一三名の教諭が出席した。

(六)  その他の勤務等について

昭和五三年一〇月一日(日曜日)に運動会が開催され、翌二日(月曜日)は代休となった。運動会終了後約一時間ほど反省会が持たれ、引き続き打上げの会となり、多少の酒類も出されたが、正孝もこれに参加した。また、同月二〇日に行われた児童会の役員選挙についても、正孝が児童会の担当であったことから、選挙手続が円滑に進行するようこれを指導した。

その他、正孝は、自ら呼びかけて「子どもの本について語る会」を結成し、同年九月に第一回の会合を持ったが、一一月二日は正孝がこの会で報告することを予定していた。このため、一〇月二六日、二七日の夜は、それぞれ翌日の午前二時ころまで起きていて、その準備に当たった。しかし、同会はあくまでも教職員達の自主的な同好会ないしさ勉強会であって、一一月二日の会合も、勤務時間外に学校外の場所で行うことを予定していた(したがって、教員の仕事の性質を考慮しても、同会での活動を公務上のものとみることはできないから、同会の準備のため作業を自宅で深夜まで行っていたことを公務の遂行と評価することはできない。)。

(七)  発症当日の勤務状況(ただし、ポートボールの審判開始まで)及び身体の状況

一〇月二八日(発症当日。土曜日)、正孝は午前七時四〇分過ぎころ自家用車を運転して出勤し、直ちにポートボールの練習を行い、その中で、ランニングシュート、攻撃・防御等について自ら模範を示して指導した。続いて朝の会に参加した後、時間割表のとおり、社会、家庭、国語の授業をし、午前一一時三五分から五〇分まで清掃指導をし、その後下校指導をし、午後〇時一五分から〇時三〇分まで職員打合会、午後一時ころまで、学級委員の認証状作りを行った。

そして、当日は、同市内の東栄小学校でポートボールの練習試合が行われる予定で、正孝は他校同士の試合において審判をすることにもなっていたため、午後一時ころ、自家用車に試合に出場する児童を同乗させ、自ら運転して東栄小学校に出発した。

正孝は、同日朝、妻である被控訴人に対し、学校を休みたいなどと洩らし、いつもと異なり食事をしないで出勤した。学校では、疲れた様子を見せ、顔色がすぐれず、頭を押さえるようなしぐさも見られた。また、口数が少なくなり、話しかけられても、それに応答するのがおっくうである様子がうかがわれた。昼休みには、同僚の沼本安彦教諭に当日のポートボール審判を交代してくれるよう頼んだが、沼本教諭は、当日所用があったためこの頼みを断った。

東栄小学校には午後一時一五分ころに到着し、正孝は、会場の体育館で午後一時三〇分ころから軽い準備体操を児童らにさせた後、午後二時前ころから開始された東栄小学校対城山小学校の練習試合の審判を担当した。

正孝は、審判開始前にも宮地五郎教諭に対し「ちょっとえらいから、審判を代わってほしい」と頼んだが、宮地教諭は、審判の仕方が分からないという理由で、その頼みを断ったので、予定どおり正孝が審判を担当したものであった。

3  正孝の健康状態

(一)  証拠(乙第一号証、第二〇号証の一、二、原審証人加藤、原審被控訴人)によれば、昭和五三年五月三〇日に実施された定期健康診断によれば、正孝は、身長161.5センチメートル、体重五八キログラムのほぼ標準的な体形であり、血圧は一〇八(収縮期血圧)と六二(拡張期血圧)で、正常値であったこと、そして、同人の勤務状況に問題はなく、また既存の疾患もなく、健康なスポーツマンで、学校当局も、本件発症までの間、正孝の健康状態には何の異常なく、同人は健康であると判断していたことが認められる。

原審証人小塚裕子は、同年九月に正孝から身体の不調を訴えられた旨証言し、また同伊藤泰子は、同年九月中から正孝の言動に疲労の色がみえた旨証言している。しかし、乙第一号証、第五号証、原審証人野田真治、同川崎伊親の各証言、被控訴人の原審供述(被控訴人は、本件発症の一週間程前までは、正孝は元気のかたまりのような人であったと供述している。)に照らすと、仮に、右小塚や伊藤が、正孝の言動から同証人らが証言するような様子を感じとったことがあったとしても、それをもって直ちに九月中から正孝に身体の不調や疲労が継続していたと認定することはできない。小塚証人及び伊藤証人の右各証言はにわかに採用できない。

また、被控訴人の原審供述によれば、日頃の正孝は、比較的酒が好きで、晩酌に日本酒なら二合位、ビールなら二本程度を飲んでおり、煙草は一日に三〇本弱を吸っていたことが認められるが、これが同人の健康に影響していたような事実は認められない。

(二)  昭和五三年九月以降の正孝の健康状態について、前記小塚裕子の作成した甲第二号証には、正孝には九月中ころから身体の変調をうかがわせるいくつかの兆候がみられたとの目撃者からの聞取りの記載がある。

しかし、九月に始まった二学期直前の夏季休暇において正孝の健康に異常があったとか、同人が過度の疲当に陥っていることを推測させるような出来事があったということを示す証拠は全くないばかりか、甲第二号証の作成が正孝の死亡後かなりの日時を経てから聞取りをして行ったもので(文書の作成日付は、昭和五五年九月三〇日である。)、その正確性を直ちに肯定することには躊躇せざるを得ないこと及び右(一)の判示に照らして考えれば、通常人が日常的に経験するのと同じように、九月当時何らかの事情で正孝に一時的に疲労が生じたということはあったかも知れないが、九月以降本件発症に至るまで身体不調ないしは疲労状態が蓄積し、あるいは継続していたとは認めることができない。

4  公務起因性の有無

そこで、右2、3の説示を前提に、正孝の特発性脳内出血の出血開始に公務起因性が認められるかどうかについて検討する。

(一)  正孝は、日頃極めて健康で、昭和五三年四月に新設校である瑞鳳小学校に移ってからは、六年生の学年主任、学級担任として、脂の乗り切った男子教員としての期待に応えて職務に精勤してきたということができる。しかし、昭和五三年九月までの職務の繁忙度は、職務の内容がある程度密度の濃いものであったとはいえるものの、それは正孝のような経験を有する小学校教員の職務に通有的なものと評価すべき範囲内のものであり、標準的な教員との比較からしても、同人自身としても、過重なものであったということはできない。

(二)  同年一〇月に入ると、ポートボールの指導や修学旅行の準備及びその実施のために、授業等の通常の職務のほかに時間をとられるようになり、出勤時刻が約四五分早くなったり、土曜日の退校時刻が遅くなったりして、時間外の勤務をし、さらには本件発症直前の修学旅行の引率勤務に対する代償としての休養時間も、翌日の二時間に過ぎなかったから、一〇月に入ってからの正孝の繁忙度は、それ以前に比べかなり増大したものであったと判断される。

しかし、証拠(乙一二号証)によれば、授業の開始前、授業終了後の生徒に対する運動の指導は、他の教員によって、ポートボール以外の運動についても、そのころ多種目にわたって行われており、正孝に特有のものではなかったことが認められる。

また、修学旅行においては、正孝は、その日程・行程や、実際の行動内容に照らし、平時の勤務よりもはるかに高い肉体的精神的負荷を受け、疲労の度合いもかなり高かったと認められる。しかし反面では、修学旅行は、教育の一環として全国の小・中学校で定例的に行われ、その実施方法も確立しており、瑞鳳小学校の修学旅行も、その確立した実施方法に則って行われたと認められるから、同行教職員にとって負担が極端に重いというものではなく、事後の回復措置により健康への影響を避けることができるとの認識が一般的であり、正孝も帰宅当夜は平常の睡眠時間をはるかに超える約一一時間の睡眠をとることができたから、正孝は、これにより疲労をかなり解消できたものと考えられる。そして、この点は、事後の正孝の行動からもうかがうことができる(なお、二日間にわたり、深夜まで「子どもの本について語る会」の準備に当たったことが、公務起因性の判断の前提となし得ないことは前示の通りである。)。

発症当日である一〇月二八日午前中における公務も、当時の正孝の公務量と何ら変わるものではなく、同人に過重な肉体的精神的負荷がかかるようなものであったとはいえない。

このようにみてくると、一〇月初めから一〇月二八日午前までの間の正孝の公務量は、小学校教職員の標準的公務量や、同人自身の健康状態に即応した公務量に比べても、同人に過重な肉体的精神的負荷がかかる程に特段に多かったと認めることはできない。

なお、甲第一号証(宮尾克医師ら作成の意見書)及び原審証人宮尾は、正孝は発症当日には前疾病状態に達していた可能性が高いとしている。しかし、右の意見は、拘束勤務時間数や睡眠時間数において正確ではなく、考慮すべきではない私的な作業をも前提にするなど、前提事実において不適切な点がみられ、また前示のような正孝の具体的な行動、疲労度に照らしても、これをそのまま採用することはできない。

以上によれば、正孝の公務による精神的肉体的負荷が過重なものであったと認めることはできず、結局、公務により、同人の有していた脳内微小血管の先天的血管腫様奇形の病変が自然的経過を超えて増悪し、破裂して出血したものと認めることはできない。

五  正孝の出血開始後における血腫の増大の公務起因性及び治療の機会の喪失について

1  公務起因性の判断基準

(一)  前示のとおり、特発性脳内出血開始後の血腫の増大ないし大出血は、通常、当初の小出血に基づく血腫の半凝固化、出血に起因する浮腫や腫脹等による還流障害によって、奇形血管の拡張、急激な透過性亢進を引き起こし、これが極限に達して血管が次々に破裂し、大血腫を形成する、という病態生理学的過程であると認めるのが相当であり、その意味では、通常の場合には、血圧ないし血圧の上昇が血腫増大ないし大出血の「原因」であるとはいえない。

しかし、全身血圧の上昇が、血腫の増大にいかなる意味でも全く関与しないとまで断定することは相当ではないから、本件において、医学的経験則を踏まえ、出血開始後において正孝が公務に従事せざるを得ず、安静にしていることができなかったことにより、全身血圧、ひいては脳内の血圧を上昇させるなどし、これが原因ないし引き金となって、右のような血腫増大の機序における血管病変が自然的経過を超えて増悪し、死亡の原因となる重篤な血腫の増大が引き起こされたと認められるときは、公務に内在する危険が現実化したものとして、公務と右血腫の増大との間に相当因果関係があり、右血腫の増大について公務起因性があると認めるのが相当である。

そして、前記認定の事実によれば、正孝は、当日朝から体調の異変に気付きながら、授業等を行っており、また、同人は、ポートボールの練習指導の中心であり、他に適当な交代要員がいないため交代が困難であったことから、やむを得ずポートボールの審判に当たったことが認められるから、同人は、体調の異変に気付いた後も、直ちに安静にすることが困難で、引き続き公務に従事せざるを得なかったということができる。したがって、本件においては、結局、正孝が体調の異変に気付いた後の公務の遂行が、前記のような意味で死亡の原因となった重篤な血腫の増大を引き起こしたといえるかどうかを検討することになる。

(二)  また、本件において、正孝が、前記の当日午後二時一〇分ころの大出血の前にもし診察、治療を受けていれば、同人が死亡するに至らなかったとすれば、同人の死亡は、午前中に脳内出血が開始し、体調不良を自覚したにもかかわらず、直ちに診察、治療を受けることが困難であって、引き続き公務に従事せざるを得なかったという、公務に内在する危険が現実化したことによるものとして、公務と右血腫の増大との間に相当因果関係があり、右血腫の増大について公務起因性があると認めることができる。

(三)  そこで、以上に述べた観点から、以下において、右(一)、(二)の二点について、検討する。

2  血腫増大の公務起因性について

(一)  一〇月二八日午前中の公務の内容は、前記認定のとおり、ポートボールの練習指導、朝の会、授業、清掃指導、下校指導等であり、早朝のポートボール指導が付加されてはいるものの、質量ともに、標準的な公務内容と変わらず、それらの内容をみても、日常生活における血圧変動とは異なった血圧上昇をもたらすようなものであったとは到底認められない。

また、同日昼の職員打合会への参加、学級委員の認証状作り、東栄小学校まで児童を車で送り、会場における準備体操等の指導をしたこと等、ポートボール審判開始前の公務も、同様に、日常生活と異なった血圧上昇をもたらすようなものであったとは到底認められない。

結局、医学経験則に照らし、これらの正孝の公務の遂行が、前記のような血腫増大の機序における血管病変を自然的経過を超えて増悪させ、死亡の原因となる重篤な血腫の増大を引き起こしたものと認めることはできない。

(二)  そこで、次に、ポートボール審判の肉体的精神的負荷について検討する。

(1) 証拠(乙第一三号証、第八八号証から第九二号証まで、原審証人宮地五郎)によれば、ポートボールないしその審判に関し、次の事実を認めることができる。

ポートボールとは、一チーム七名の二チームが、サイドライン二五メートル、エンドライン12.5メートルの長方形のコートの中で、互いにボールを取り合い、両サイド中央のゴール台上に立つゴールマンに渡すことで得点を競うゲームで、バスケットボールの初歩的なゲームということができる。尾張旭市教育委員会主催の球技大会においては、競技時間は、前半一〇分と後半一〇分とに分かれ、その間に一〇分のハーフタイムを取るほか、前半・後半の試合中に各一回一分の作戦タイムをとることができるとされていた。なお、ボールがデッドの状態のときは、ゲームウォッチが止められるため、現実の競技時間は右よりも若干長くなるのが通常であった。

当時の文部省の小学校学習指導要領では、ポートボールは、四年生から指導が始まることとされていた。尾張旭市教育委員会主催の市内小学校球技大会では、女子の競技種目となっていた。

審判は、試合中、ボールがパスなどで移動するので、選手とともに両ゴールの二五メートルの間を走りながら移動して、試合の進行を管理し、その間笛を吹いたり、体の動作でボール操作についての反則を判定したり、得点のカウントや、計時等も行う。選手の動きの微妙な点についても判定する必要があるため、ある程度の熟練を要する。正式には、一試合に二名の審判がサイドラインの両側に分かれてつくが、当日は正孝が一人で審判を行った。

当日は、試合の前半が終了し、ハーフタイム中の午後二時一〇分ころ、正孝は、センターサークル付近で額を押さえるようにして千鳥足様の状態となり、そのような状態のままサイドライン沿いの瑞鳳小学校の児童達の所に歩いてきて、その場で膝をつき、うずくまるようにして倒れた。

(2) 被控訴人は、正孝がポートボールの審判をすることによって血圧の上昇をきたし、かつ、出血直後であることから、脳血流自動調節機能が十全な機能を果たさず、血流量を増加させ、血腫を増大させたと主張する。そして、当審証人古瀬の証言及び同人作成の甲第一五号証の意見書も同趣旨である。

まず、ポートボール審判について検討するに、証拠(乙第五〇号証の一、二)によれば、松井秀治愛知県立大学教授(当時)は、昭和五八年、ミニバスケットボール審判の生理的負担度について実験を行ったこと、ミニバスケットボールは、ポートボールよりも活動内容は遥かに活発化した競技であり、ゲーム集団としては、中等度以上のゲーム能力を有する小学校五、六年の女子を選定し、また、審判として、正孝とほぼ同年輩の四名(二名は、年齢が近く審判はできるが、日常課外活動としてはミニバスケットボール指導は行っていない者、一名は、年齢は六歳若いが、日常継続的に指導を行っている者、他の一名は、その一名と同年輩の審判可能な者)を選定したこと、この四名についてトレッドミル最大運動負荷テストを実施した上、一チーム一〇人編成でミニバスケットボールの試合を、二日間にわたり、二人審判の場合、一人審判の場合に分けて実験をしたこと、心拍数を用いての酸素摂取量算出値による強度比較において、ミニバスケットボールの審判の運動負荷強度は、各人の最大運動負担能力に対し、平均四〇%から五〇%の強度、最も高い場合でも六五%であったこと、この数値は、三〇歳半ばの男子にとっては健康作り運動としての標準的運動強度といえる範囲であること、血液性状の分析結果からみても、同審判の運動負担度は、中等度の運動強度に当たること、血圧は、個人差があるものの、収縮期血圧の上昇度は、ほぼ一〇%から二二%の間であり、目立った上昇を示したというわけではなかったこと、以上の事実を認めることができる。なお、これに対し、甲第一号証中には、三六歳の男子のポートボール審判の被験事例が記載されているが、一定の信頼できるデータや結論を得るための条件の設定が的確にされているとはいえないから、乙第五〇号証の一、二に照らし、にわかに採用しがたい。

また、証拠(乙第一一三号証、第一一六号証)によれば、体重の移動を伴う動的運動(歩く、走る、泳ぐ等の運動)は、体重の移動を伴わない静的運動(たとえば、腕立て伏せ、懸垂、ベンチプレス、エキスパンダー等)で急激に全身血圧が上昇するのに比し、全身血圧の上昇は少ないこと、特に余り強くない運動では、血圧は最初少し上昇するだけで、やがて安定状態に落ち着く性質があることが認められる。そして、乙第五〇号証の一、二からすると、正孝のポートボール審判は、ここでいう「余り強くない運動」に当たると認められる。

そして、このような各事情に加え、前記認定のように、正孝が、もともと極めて健康な三四歳のスポーツマンで、血圧に異常もなく、以前から実際に実技の指導にも当たり、審判にも熟練していたことを併せると、本件のポートボール審判によって、正孝が大きな肉体的精神的負荷を受け、これにより通常の日常生活における血圧変動の幅を超えて、大きく全身血圧が上昇するような事態があったとは認めることができない。

(3) 次に、脳血流自動調節機能の障害の点について、古瀬医師は、甲第一五号証の意見書及び当審証言において、脳内出血を起こしている場合には、その部位の脳血流自動調節機能は十分に機能を果たすことができず、脳深部であっても、全身血圧の影響を受ける旨述べている。

確かに、証拠(甲第一四号証)によれば、脳梗塞、脳出血など、脳血管障害の急性期、脳腫瘍、脳外傷、髄膜炎脳炎などの感染症などで、脳血流自動調節機能の障害が報告されているとされることがあることが認められる。しかし、他方では、前示の判示(三2(二)(6))のほか、証拠(甲第一四号証、乙第一一〇号証から第一一三号証まで、当審証人寺尾)によれば、脳血流自動調節機能が障害を受けると、脳への血流が異常になることから、様々な神経症状が発生することが多いことが認められるが、他方では、脳内出血があっても、本人に何らの神経症状が出ないまま、治癒することがあることから、どのような出血であっても直ちに脳血流自動調節機能が障害を受けるとは限らないものと認められる。

また、証拠(甲第八号証の一、二、第一五号証、乙第一一一号証、第一一三号証、当審証人寺尾)によれば、脳血流自動調節機能は、「平均血圧」が六〇mmHgから一六〇mmHg(ないし一五〇mmHg)までの間では、全身血圧がどのように変化しようと、脳内の血流量を一定に保つ機能であるが、脳内出血急性期には自動調節機能の働く平均血圧下限値が上方に偏位する(移動する)と指摘されていること、脳血流自動調節機能が障害を受ける場合でも、直ちに全体の機能が失われるものではないこと、脳出血当初は、出血を防止しようとする生体防御反応として、局所の血管攣縮などの反応により血管奇形付近の血流が急激に減少することがあること、以上の事実が認められるから、小出血当初において直ちに脳血流自動調節機能が障害を受け、これにより、局部的に血圧が上昇するなどして大出血が引き起こされると考えることには無理があるということができる。

なお、証拠(乙第二号証)によれば、井上病院に搬送された午後二時三〇分ころの正孝の血圧は、一六〇(収縮期)、八〇(拡張期)であったことが認められるが、証拠(乙第一一一号証、一一三号証)によれば、この血圧は、脳内に大出血が起きた場合に生じる頭蓋内圧の上昇に対し、脳に十分な血液を送るため血圧が急に上昇する「クッシング現象」によるものと解されるから、このことから、必ずしも大出血の前に脳血流自動調節機能が障害されていたということはできない。

結局、脳血流自動調節機能の障害に関する古瀬医師の見解は、採用することができず、正孝が大出血を起こした午後二時一〇分ころまでの間においては、脳血流自動調節機能は障害を受けることなく維持されていたと認めるのが相当である。そして、さらに、もともと、前示のとおり、出血部位の細動脈、細静脈においては、平均血圧が一五mmHgから三五mmHgと非常に低く、全身血圧の変動を受けにくいから、結局、脳内における血圧、血流の機序の点からみても、本件ポートボール審判によって、出血部位付近の血圧が特別に上昇したものと認めることはできない。

(三) 以上のほか、前示のように、特発性脳内出血開始後の血腫の増大の機序に照らすと、正孝の血腫増大のプロセスは、数時間にわたる病態生理学的過程であると認められること、当日正孝がポートボール審判において身体を動かしていたのは、延べにして試合開始からハーフタイムまでの高々十数分ないし二〇分程度の間であって、この運動時間は、右の数時間にわたる血腫増大の病態生理学的過程における極めてわずかの一局面に過ぎないこと、そして、本件のポートボール審判開始時においては、すでに大出血直前の病態生理学的状態にあったと推認できることなどの事情をも併せ考慮すると、本件ポートボール審判による負荷が、同人の全身血圧を上昇させるなどし、血腫増大の機序における血管病変を自然的経過を超えて増悪させたことにより、死亡の原因となった血腫の増大ないし大出血を引き起こしたと認めることはできず、正孝の特発性脳内出血の血腫の増大は、同脳内出血の通常の病態生理学的機序の範囲内の経過をたどって発生したものと認めるのが相当である。

したがって、右血腫の増大ないし大出血は、公務に内在する危険が現実化したものとはいえず、右公務起因性があるということはできない。

3  治療機会の喪失について

(一)  被控訴人は、大出血発生前に医師の診療を受けていれば、脳内出血等の病変を疑われ、早期治療や安静確保により、重篤な血腫の形成を避けることができたと主張する。

(1) 前示のように、本件特発性脳内出血発症当日の朝から、ポートボール審判をするに至るまでの間において、正孝には、学校で疲れた様子を見せ、顔色がすぐれず、頭を押えるようなしぐさも見らられたこと、また、口数が少なくなり、話しかけられても、それに応答するのがおっくうな様子がうかがわれたこと、審判中も、疲れた様子を見せていたことなどの事情があったことが認められる。

右の事実に証拠(乙第八五号証、第九五号証、第一一三号証、当審証人寺尾、同馬杉)を併せると、当日正孝の示した症状は、脳血管障害を示唆するような特異的な症状ではなく、非特異的な症状であること、当日周囲の同僚教諭、児童らも、正孝の体調が悪いことは認識していたものの、認証状作成や自動車運転等を含め、通常の公務をこなしていたことなどから、正孝が異常な状況にあるとは誰も感じとっていなかったこと、そこで、同人が受診するとしても、当時は内科で受診した可能性が最も高く、その場合は、同人の症状から、通常医師は風邪か肝臓の障害を疑い、そのための検査をし、場合によってはビタミン剤等を投与し、暫く様子を見るという程度の措置をとった可能性が最も高いこと、以上の事実を認めることができる。

なお、医師に受診した場合、当時でも、脳神経外科医に受診することになる可能性も全くは否定できないが、証拠(甲第一〇号証、乙第一一三号証、当審証人寺尾)によれば、患者が脳神経外科で受診するのは、そのほとんどが脳の病変を示唆する特異的な神経症状が発現してからであることが認められるから、正孝の場合、当日同人が医師に受診することになった場合でも、脳神経外科において受診することになった可能性は極めて低いというほかはない。

(2) 被控訴人は、医師に受診さえすれば、正孝の症状から、医師が脳の病変を疑った可能性があると主張している。そして、古瀬医師は、甲第一五号証及び当審証人尋問においてこれに沿う意見を述べている。

しかし、そのような可能性が皆無であるとはいえないものの、前記認定の事実によれば、回りの多くの人達が正孝の言動を見ていたにもかかわらず、脳内出血に特有な特異的神経症状が正孝に発現していたことをうかがわせる事情は全く認められないし、もともと、特発性脳内出血における小出血の開始時においては、正孝が示したような非特異的な愁訴を訴える場合が普通であるから、脳血管の病変を示唆する神経症状が発生していたと認めることはできない。古瀬医師の右の意見は採用することができない。

(3) また、被控訴人は、CT検査を受けられた可能性について言及している。

しかし、証拠(乙第九七号証、第一〇三号証から第一〇六号証まで、第一一三号証、当審証人寺尾、同馬杉)によれば、当時CT装置は大きな病院に備えられてはいたが、一般的に普及しておらず、その関係で、CT検査を受けるためには、緊急性が高い場合以外は、かなりの待機の時間を要する状態であったことが認められるから、当時正孝が、はっきりした神経症状もない状態でCT検査を受けることができた可能性はほとんどないと認めるのが相当である。

(4) さらに、被控訴人は、正孝が安静にすることができたとすれば、血腫の増大を招かなかった可能性があると主張し、古瀬医師も、甲第一五号証の意見書及び当審証人尋問において同旨の意見を述べている。

しかし、前示のとおり、本件の血腫の増大は、特発性脳内出血の大血腫形成の病態生理学的機序における自然の経過の範囲内の経過をたどって発生したものと認めるのが相当であるから、正孝が公務から離れ、安静にしていたとしても、全く同一の経過をたどった可能性も相当に高く、安静にすることにより、血腫の増大を招かなかった可能性が高いとまでは認めることができない。

(二)  そこで、以上の説示に証拠(乙第二二号証、第二五号証の一から九まで、第九五号証、第九七号証、第一一三号証、当審証人寺尾、同馬杉、原審証人神野、同堀)を併せると、正孝は、当日公務に従事していると否とにかかわらず、当日発症したと同様の意識障害等の神経症状を呈して後、初めて脳神経外科で受診し、治療を受けることになった蓋然性が高いこと、正孝は、当日午後二時一〇分ころ東栄小学校で倒れた後、井上病院を経て、午後四時三〇分ころ公立陶生病院に搬送されて入院したこと、同病院では、諸検査を経て、正孝は、午後七時三〇分ころ手術室に入室し、午後八時二三分ころから血腫除去手術を受けたこと、意識障害等を起こしてから手術までの経過時間は六時間であり、このような脳内出血に対する手術としては順調な時間的経過をたどったものといえること、以上の事実を認めることができる。

したがって、当時正孝が、ポートボール審判等の公務に従事したことにより診察、治療の機会を喪失し、これにより死亡するに至ったものと認めることはできず、この点から正孝の死亡に公務起因性があると認めることはできない。

六  結論

以上の次第で、正孝の死亡を公務上のものと認めなかった控訴人の本件処分に違法はなく、被控訴人の請求は理由がない。

よって、被控訴人の請求を認容した原判決は不当であり、本件控訴は理由があるから、原判決(ただし、被控訴人に関する部分)を取り消した上、被控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六七条二項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官水野祐一 裁判官岩田好二 裁判官山田貞夫)

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